「不登校は甘え」は本当だった。で、甘えのどこがいけないんだろう?

ammこんにちは、AI-am(アイアム)星山まりん です。

わたしはこれまで「不登校は甘えじゃない」と思っていましたが、ふと「甘え」の意味を考えて、案外「不登校ってたしかに甘えかも」という気になりました。

だとすれば、甘えのどこがいけないんだろう?  「甘えてる」と指をさされて、傷つく必要なんてあるだろうか?

「不登校は環境に甘えている」?

おおきく、おおざっぱに、おおまかに分ければ、いまの世の中には「不登校は甘え派」「不登校は甘えじゃない派」がいるといえます。

不登校における「甘え」というと、「頑張れば行けるけどそれはしんどいから、行かないことを受容してくれる環境に甘えている」みたいな感じでしょうか。

わたしは長らく、自分のことを「不登校は甘えじゃない派」だと思っていたんですが、ふと、そうじゃないことに気づきました。

甘えって(いくつか意味があるけど「不登校は甘え」に当てはまるものでいうと)、相手の好意を受け入れるとか、あてにするとか、そういう意味らしい。「お言葉に甘えて」とか言いますね。

この意味は、わりとすこし、履き違えられているような気もします。

 

子どもは親の価値観にさからえない

たとえば、親もとを離れて、自分ひとりの収入で生計を立てている会社勤めの子どもが「会社へ行きたくない」と出社を拒否することと、
親もとで暮らし、養われ、どこへ行くにもなにを買うにも親を介する子どもが「学校へ行きたくない」と登校を拒否することは、同じではありません。

行きたくない気持ちはおなじでも、前者なら親の許可を必要とはしないし、どういう行動を取るにせよいわゆる「自己責任」とか「自業自得」みたいな言葉を向けられます。

でも後者の場合は、本人の世界はまだ親の価値観と判断によってつくられていて、許可は必要だし、許可の出ないことはできないし、つねに(親にとって)正しい道を押しつけられる、そういうことが、ほとんどです。

つまり、学校へ行きたくないけれども行かなければならない子どもと、行かないことができる子どもとを分けるのは、親の価値観、ということになります。

 

わたしのやってきたことも「甘え」のひとつ

わたしの場合は、母親である よっぴー が、子どもが学校に行かないことになんの抵抗もない、行くも行かないも同じ、という考えでした。

だから、小学校一年生で学校へ行きたくなくなったとき、そのままわたしは行かないことを選べたわけです。そのまま、中学・高校も行かず。

これってたしかにある意味、「甘え」じゃないですか?

実際には、わたしたちのあいだには「許可する/しない」とか、「認める/認めない」みたいな観念はありません。

でも、そういう関係をもった親子のあいだに感情とか価値観の相違があれば、幼いうちは、子どもは親の感情や価値観にそって行動するほかない。
だから、学校には行かなければいけないと言われたら、行くことしか認められなければ、やっぱり行かざるをえない。

学校へ行かないことについて、わたしはよっぴー(母親)に「お伺い」みたいなものをしたことはないので(勝手に登校をやめることに決めて帰った)、正確ではないかもしれないけど、
ある見方をすれば、わたしは、よっぴーの考えをありがたく受け取って、そのまま学校へ行かないことにした、ということになります。

たとえこれを「甘え」だと指摘されても、わたしはまったく嫌な気持ちになりません

 

「甘え」や「いけないこと」と言いたくなる理由

そもそもどうして「甘え」という言葉が湧き上がってくるのかというと、それはうらやましさからですよね。

学校を楽しんでいるのであれば、学校に行きたくない、という相手には「甘えてる」とか「それはいけないこと」とかじゃなく、「なんで? こんなに楽しいのにもったいない」みたいな気持ちになる。

でも、そうじゃない。自分もそうしたいけど、環境が許さなかった。
うらやましくて、妬ましいけれども、それを認めたくもないし、自分は「できなかった」側の人間ではなく、「大変なことを頑張った」側の人間であることにする。

そして、みんな「自分のように苦労するべき」で、がんばれないやつは「甘え」ていて、「ろくでもない人間にしかなれない」ということにする。

もちろんほんとは、それだって劣るようなことではなくて、甘えることが優れているわけでもなくて、どちらも自然です。

 

「甘え」のなにがいけないのか?

「甘え」の話に戻ってわたしが思うのは、「甘えのどこがいけないのか」ということです。

「◯◯は甘え」とかって、甘えはいけないこと、という風潮があって成立している。
がんばらないことはいけないこと、っていう、あの風潮でもあります。

「逃げ」「サボり」なんかもそうですけど、逃げることのなにがいけないのか、わたしはいまだに自分が納得する答えを見かけたことがありません。甘えも、そう。

「頑張れば行けるけどそれはしんどいから、行かないことを受容してくれる環境に甘えている」で、全然かまわない。

だって、頑張らなきゃいけないことなんてないし。
それぞれに「がんばりたいこと」「甘えたくないこと」はあるかもしれないけど、みんな揃って、甘えず、かならず頑張らなきゃいけないことなんて、ひとっつもありません

「甘えてる」と指をさされても、そっくり肯定すればいい。
信条に反するのでなければ、わたしは、甘えられることはありがたく甘えておきたい。

甘えられるって、めちゃくちゃラッキーなことです。

 

今日の本

「甘え」の構造/土居 健郎

「甘え」が失われた社会に「甘やかし」と「甘ったれ」が蔓延している。変質しつつある日本社会の根底に横たわる危機を鋭く分析した書下し論考<「甘え」今昔>を加えた増補普及版!
—-いまこそ読まれるべき不朽の名著

 

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