子どもの説明書はいらない

amm

こんにちは、AI-amの星山まりんです。

わたしたちの書籍、このブログのなかでも「信頼」や「待つ」ということばを使用していますが、このことばの表面だけを受け取るのはもったいないです。もったいないし、まずい。それよりも必要なのは、体感することだと思う。

ことばの表面

ことばの表面に左右されるのは考えものだなあ、と、ときどき思います。
ことばっていうのはほんとうに豊かですばらしいけれど、それを方法論やマニュアルとして受け取ってしまうのは、まずい感じ。

信頼ということば。

わたし吉田晃子 は、書籍のなかでも信頼ということばを使用しましたが(『小さな天才の育て方・育ち方-小・中・高に通わず大学へ行った話』 ←ぜひぜひ読んでください)、これを字面どおりに「じゃあ子どもを信頼してみるか」というノリがあったりするのを、耳にします。

それで、「どうやって信頼すればいいですか」ということになる。
「信頼は「する」ものじゃなく「ある」もの」というふうにも書きましたが、これはことばの、まずい作用のひとつなんだな、と気づかせてくれます。

 

そういう働きの起こらないようなことばを使うことが必要なんだなあとも思うし、説明書を読んでいるんじゃないんだから、自分なりに解釈して落としこむという行為も必要だと思う。

 

「待つ」ことと「待ってあげる」こと

「待つ」にも似たようなことが。

「待つ」ことと「待ってあげる」ことはほんとに、まったく、違います。
信頼するとか待つとか、そういうものをさも説明書で読んだように実践すると、それは「信頼してあげる」とか、「待ってあげる」という状態になる。
それは対等でもなんでもない(と、こういう「対等」ということばもまた、よくないかもしれません)。

 

ましてや関係にはそれぞれ大きく、小さく、きれいにいびつに、いろんなちがいがあるし、一度そうだと思ったものが、日ごと変化もする。

じゃそれはどうすればいいのかっていうと、それは、体感するってことだなあと、感じています。
子ども(人間関係)についてもそうだし、「知識として知りたいこと」や「ことばとして知りたいこと」でないかぎりは、ことばの内側にあるものを感じなければ自分のものにはならない。
そうしてあとからついてくるのが、ことばになった信頼とか、待つとか、そういうもののような気がします。

だから、自分がいいなとおもうものをもっているひと、やっているひとがいるならそこへ行く、話をきく、というのはすごく自然で、ある意味とても合理的で、たしかなことだと思う。

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