親の仕事は子どもを愛すること

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こんにちは、

AI-am(アイアム)
よっぴーです。

 

子どもが自己肯定感を育むにはどうしたらよいのか?

どう育てたら「学び」を楽しむ子どものまま、健やかに成長していくのか?

親はなにをどうしたらよいのか? その前編です。

 

家庭でサドベリー

以前書いた記事によせて、「わたしも「暮らし」をいっぱいやっていきたいです。子どもと <いま ここ> に在れる母になりたいです。…… どうしたらよいですか?」とご質問を受けました。

これは、親は子どもよりもエラくて上の立場だという思いを手放すことからはじまります。

 

親は子どものまちがいを正すもの?

ちょっと想像してみてね。

スーパーの帰り道。道ばたに咲いているチューリップを指さして、もうすぐ3歳になるAちゃんが「あ、ひまわりー」と言ったとします。

こういうときたいていのママは、怒ることなく、これはひまわりじゃないよ、チューリップだよと教えるのかな、とおもうんですね。

 

で、翌日。また同じところを通ると、これまた同じくAちゃんはチューリップを指さして、「あ、ひまわり!」と言ったとします。

このとき、昨日「これはひまわりじゃないよ、チューリップだよ」と教えたばかりのママっていうのは、どんな気持ちになるでしょうか。

 

これはわたしの想像ですが、「正しさ」を教える人というのはこういうとき、怒りというか、イラッとしたものがこみあげてくる のではないでしょうか?

だから、やさしさが若干薄れたトーンになって、ちがうよ。昨日教えたでしょ? これはひまわりという花だよとこたえるのではないんでしょうか?

 

そんなこんなでさらなる翌日。

スーパーから同じ道を通って帰るとき、花の名まえをちゃんと覚えたかどうか…… に意識がいっているママというのは、子どもより先に口を開いてこう言います。ほらAちゃん、このお花は何だったかな?と。

 

「チューリップ」と答えたなら ⇒ 安心した親は、もう、このことに関心をもたなくなります。

 

「ひまわり」と言ったなら ⇒ 画像を見せたりなどして、ひまわりとチューリップの違いを教えたり、はたまた怒ったり、もしくは「もう知らん」と放棄したり。

 

ちがうよ。昨日教えたでしょ? これはひまわりという花だよの、昨日教えたでしょ?。この言葉の類を無意識に吐くとき、親は、この子はなぜチューリップをひまわりと言うのか、ということには関心を寄せていません。

なぜチューリップをひまわりと言われて怒りを覚えたのか、自分のその感情に目を向けてみる ことをしません。

そこを考えてみようよ、とおもうのです。

教えない・奪わない・求めない

子育てというのは、正解・不正解を教えることではない です。

正解を求めることでもない んです。

本人の学びを奪わない こと。子どもの創造性精神を奪わない こと。

親のしごとは子どもを愛すること です!!

 

「そっちじゃないよ! こっちだよー」

先日の「よっぴー、まりんのなんでも質問・なんでも回答」の配信のときにもチラッとお話ししたことなんだけど、

スイカ割りをするときの掛け声ってあるじゃないですか。「そっちじゃないよー! こっちだよー!!」っていうやつ。

わたしスイカ割りは だーーーい好きなんですが、あの「そっちじゃないよー!」の掛け声はキライなんですね。

だから「こっちだよー」しか言わない。

 

子育てにおいては「こっちだよー」も言わない。つーか、言えない ですよね、そんなの。

冒頭のこれはひまわりじゃないよ、チューリップだよの、チューリップだよさえ要らないってわけです。

チューリップだよは、子どもが「これ、なんていうお花?」と尋ねてきたときに返す言葉なのだから。

 

どうして「そっちじゃないよー! こっちだよー!!」と言ってしまうのか?

言われつづける子どもはどうなるのか?

 

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