
こんにちは、AI-amの星山まりんです。
お母さんのがっこう516で開催している「自分を知る読書会」は、3月にリニューアルします!
課題図書はそれぞれで読みすすめておき、月1回、月末の水曜日にあつまってディスカッションをします(土曜日もあり)。
詳しくは https://ai-am.net/book をご覧ください。
今回は、3月の課題図書、J・D・サリンジャー著『ライ麦畑でつかまえて』の書評です。
『ライ麦畑でつかまえて』
無駄が好きだ。
ほんとうに無駄なもの、ではなく、ふざけた、そういう時間が、なにより豊かさを育むとおもう。そういう生活が、好きだ。
社会も、学校も、無駄や道草をくうことを嫌う。それよりももっと目にみえて価値のあるものを、と言う。
冗談だけの会話で夜ふかしをしたり、時計の針が動くのを見つめたり、毎日のように昼間からお茶をしているおじさんたち(なぜか外国の街にはよくいる)を夕方くらいまで眺めたり、そういうことは、すごくいい。
道の途中で川にみとれて、それで目的地にたどり着けなくなる。
すてきなことだ。とても。
『ライ麦畑でつかまえて』の主人公、ホールデン・コールフィールドを、「思春期」とか、「子どもと大人のあいだにいる青年」などといって括ってしまうことには、なんの意味もない。
彼は「大丈夫ですよ、僕は。いま、一つの時期を通り抜けようとしてるだけなんです。誰だって、いろんな時期を通り抜けて行くんじゃありませんか?」と語るけれど、この小説は、決して「通り抜ける青年」を描いたわけではない。
過程としての過程でなく、過程の、そのうちのたった3日間やそこらだけを切り取っている。
「それはとにかく、僕は今みたいなのが好きだ」と僕は言った。「つまり、この今のことだよ。ここにこうして君と坐って、おしゃべりしたり、ふざけたり−−」
「そんなの、実際のものじゃないじゃない!」
「いや、実際のものだとも! 実際のものにきまってる! どうしてそうじゃないことがあるもんか! みんなは実際のものをものだと思わないんだ。クソタレ野郎どもが」
「その授業のときには、クラスの全員が一人一人立って何かしゃべらなきゃならないんです。なんでも好きなことでいいんですけどね。そして、その生徒がちょっとでも本題と無関係なことを言うと、できるだけ早く《脱線!》といってどなることになってるんです。これがどうも頭に来ちゃって。」
(中略)
「そうですね−−そうかもしれない。たぶん、そうでしょう。たぶん、農場ではなく、おじさんのほうを題目に取り上げるべきだったんでしょう、それが一番興味のあることだったらですね。でも、僕が言いたいのはですね、たいていの場合は、たいして興味のないようなことを話しだしてみて、はじめて、何に一番興味があるかがわかるってことなんです。これはもう、どうしてもそうなっちゃうことがときどきありますよね。だから、相手の言ってることが、少なくとも、おもしろくはあるんだし、相手がすっかり興奮して話してるんだとしたら、それはそのまま話さしてやるのがほんとうだと僕は思うんです。僕は興奮して話してる人の話って好きなんです。」
ひとつめの引用は、かの有名な「ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。」というセリフのすこし前にある、妹であるフィービーの「好きなものを一つでも言ってごらんなさい」に対する、答えのひとつ。
ふたつめの引用は、高校の授業(「弁論表現」)について。
こういうことって、いくらでもある。とりわけ学校だとか、それに似た場所では。
そういう場所は、「実際のもの」が好きだ。形のあるものとか、生産性のあるものとか、数字のあるものとか。だから、無駄や脱線を認めることはできない。だって、そんなものは評価のしようがないのだ。
そして、この「学校に似た場所」のなかに、しばしば家庭さえ含まれることが、おそろしいなと思う。
当時のアメリカのハイスクールについてはともかく、いまの日本の学校が、無駄なこと、脱線したことを学校内で受け入れようとしない場所であることは、わかる。
それをどうこう、文句をつけるという気もないし、そんな場所はいますぐになくなるべきだ、とも思わない。
けれど、なにより生活の中心であるはずの家庭が学校に似た場所になるのは、いやだ。