こんにちは、AI-am(アイアム)の星山まりんです。
日本では、小学校・中学校の義務教育を終えたら高校へ行き、多くは大学や専門学校へ行き、就職するという流れが一般的です。
でも、あなたはなぜ、それをするんでしょうか。
「一般的」は悪いことではない
小学校・中学校の義務教育を終えたら高校へ行き、多くは大学や専門学校へ行き、就職する。
その間に、空白期間は一切なし。
一般的なケース、基本的なケースというものがあることは、悪いことじゃありません。
もちろん、それに沿うことも。
「そうでなければならない」「そういうもの」と固まった概念をもつことも、それ自体は別に問題ではありません(どんなことにせよ、固定概念というものがわたしは好きではありませんが)。
けれど、それに(ほとんどが無意識に)沿っているひとたちに、苦痛とか、虚無感といったものが起こることが、あまりに多い。
果ては自殺してしまうとか、精神を病んでしまうとか。
まあ軽度なら、みんな病んでいるようなものです。月曜日と金曜日では顔つきが全然違うとか。
それは、そのひとたちにとって、「一般的なケース」とか「基本的なケース」のなかで、問題とか、無理が生じているということにほかなりません。
「働きたくはないが働かなければいけない」
場合によっては小学校からはじまって、日々の登校や勉強に謎をもったり、謎がしだいにグチに変わったりします。
「なぜ」から、「そういうもの」とあきらめることによって。
そこから数年すれば、「働きたくはないが働かなくてはいけない」という思考が、うまく働くようになります。
これは学校教育(と、それによって成り立つ社会のありよう)の賜物ですね。
それで、個人によって中卒なり高卒なり、大卒なりといった時点から、仕事をはじめるわけです。
すりこまれてきた、学校に「行かなければならない」という状況が、会社などで「働かなければならない」にスライドしていくだけ。
(ちなみに、これは、仕事に生きがいや楽しみを見出していたり、人生(生き方)と仕事とがつよく結びついた本来の「働く」「仕事」ではなく、ただ「そういうもの」として働いている場合、ごくごく一般的に用いられる「仕事」の意のはなしです。)
滑稽なのは、そこに意思がないこと
わたしはいま大学四年生で、今年の春で卒業(の予定)なのですが。
現代の大学四年生の様式というものを実際に間近で見られて、とてもおもしろかったわけです。
四年制大学の学生にとって、最後の一年はほとんど就職活動のためにあるらしい。
明確な意思があるならともかく、それもなくて、「ずっと学生でいたいね」とか言いながら、なんとなく、でもなにかに急かされるようにして、就活をしている。
滑稽なのは、職種でも働き方でもなく、そこに意思がないこと、です。
雇われて働くことがばかばかしいとか、非正規雇用ではだめだとか、わたしにとってはどうでもいいことです。
いずれにせよ、それに納得しているかどうかが重要であって。
でも、ほんとうに納得するためには、意思が必要でしょう。
学校を自由につかうように、社会も自由につかう
なぜ6歳になったら学校へ行って、なぜ22歳になったら社会人として働きはじめますか。
必要になったとき、必要なだけ、必要な学校に行けばいいし、それと同じように、就職をすればいい。
もちろん、そのときが来ないこともありますが。
苦痛や虚無感は、やめたくてもやめられない(と思っている)から、やってくるもののような気がします(わたしにはその体験がないので、言い切ることはできませんが)。
自分の意思でもって選んだことなら、たぶんそうはならない。
やめたければ、やめることだって選べるし、やっぱり今は続ける、ということもしっかり選べる。
空虚に向かって不平不満をぶつけるような、そんな真似はせずに済みます。とても健康なことに。
わたしは就活も就職もしなかったわけですが(今後は未定)、くるしい思いをすることが大人になることだとか、一人前になること、自立することだというなら、
わたしはそんなものにはなれなくていい、できなくていいと、はっきり言えます。
それに、それがほんとうに大人であること、一人前であること、自立していると胸を張れる状態だとは、とうてい思えないし。