こんにちは、AI-am(アイアム)の 吉田 晃子 です。
不登校のままで大丈夫なのか、という将来への不安と、
社会に出て適応していくための能力と、学校に適応できる能力は違うということと、
多様性について書いています。
将来への不安
行きたくないと言っているこどもを無理に行かせなくてもいい。という考えを持たれる親御さんが、ほんと多くなりました。
ただそれでもね、やっぱり想いは揺れ動きます。
こどもが学校に行かなくなって、
- このままで大丈夫なんだろうか
- 勉強だけはさせておかないといけないんじゃないだろうか
- ゲーム三昧でもいいんだろうか
- 学校に行かないで、人とうまく付き合っていけるだろうか
- 就職できるだろうか
などから、
そうはいっても将来、社会に出て適応していくためには、学校に適応できる能力を身につけておかなければならないんじゃないですか?
こういった類のご質問が多いのも現状です。
社会は多様に満ちている
社会に適応するための能力?
そもそも、社会に適応するための能力ってなんだ? って話なんですが、そこは今回置いといて、これね、いつもおもうんです。
社会は多様だよ と。
学校に適応できる能力が身についている人も多様のひとつなら、学校に適応できる能力が身についていない人も多様のひとつじゃないですか?
学校は、社会に適応するための訓練場といわれます。
確かにね、学校は、社畜※と呼ばれる会社員を育てる専門学校みたいなとこだけど、その訓練場を出たからといって、皆が皆、社畜になっているわけでじゃないですよね。
※ 社畜・・・会社に飼い慣らされてしまい自分の意思と良心を放棄し奴隷(家畜)と化した賃金労働者の状態を揶揄したもので、「会社+家畜」から来た造語かつ俗語。
社会に出て適応していくために、学校に適応できる能力は、別にいらないよ、ということです。
多様性のある社会
よくね、「多様な社会を」というけれど、
目指すのは、多様な社会ではなく、多様性を認める社会です。

そのためには、多様性を認められる人間でなきゃいけません。
(多様性を「受け入れる」ではなくて、「認める」。認めるのと受け入れるのではまったく意味が違う)

多様性を認められる人間になるためには、
自分とは異なる考え方を認められる人間でなきゃはじまらない。

自分のなかの根底を覆う「判断の基準」を知り、他者との「違い」や「異質」を認められるようになったとき、他者に対してちょっとは寛容な人間となりうるんだとおもうんです。
それこそが、おとなの役割なんじゃないのかな、とおもうんです。
自分と違う人
多様性を認めるということは、「自分と違う人もいる」と理解することです。
その反対にあるのは、「自分と違う人は排除する」という排他的な考えです。
上の子は学校に行っていない。
真ん中の子は行っている。
下の子は行ったり、行かなかったり。
外で遊ぶのが好きな子。
ゲームが好きな子。
それもいいよね、あれもいいよね、といった具合。
多様性を認められることができるようになると、自分自身の幅が広がり、新たなアイデアや、行動が生まれやすくなります。
でね、慣れ親しんだ環境で、同じ人間とばかりいると、新たな発想や行動は生まれないから、それぞれに異なる人たちのいる世界に行ってみるのも受容を高めます。
それこそアメリカやヨーロッパなどを旅していると、いろんな言葉が飛び交っているし、人種もいろいろで、すごくおもしろい。
前回の記事『 行き渋りや不登校の解決方法でしてはいけないこと!すべきこと!根性論・精神論ではなく考える 』で、「考える」について書いたけれど、
「考え」を生み出すためには、「行動」も同じように必要なんですよね。
ここはひとつ、奴隷力( 前回の記事参照 )を追っ払って、上司から休むことに慣れて、ちょいと海外にでも行ってみませんか?
休むことは罪じゃない。
休むことをマイナス的に捉える日本人の精神論から、いち抜けだー!
あそぼ、あそぼ。
よっぴーも、ベルギーに行ってきます♬
今日の本
ガンディーの言葉/マハートマ・ガンディー
非暴力・不服従でインドを独立に導いた偉人として知られるガンディー。彼はどんな言葉で自分の考えを人々に伝えてきたのでしょうか。少年時代のエピソードから、彼の思想の中心であるアヒンサーや、手紡ぎ車の思想、宗教観、教育観まで、やさしいイントロダクションと豊富な訳註でその言葉をたどります。