こんにちは、AI-am(アイアム)の吉田 晃子です。
夏休みもすっかり明け、新学期をどのように迎えられていますか。
向かいにある保育園では運動会の練習がはじまったようで、この時期だけは子どもたちの声より、先生たちの荒げた声のほうがよく聞こえてきます。
息子の話
そんな運動会の練習もたけなわなころ、 上の子ども は(星山海琳の兄)学校に行けなくなりました。
その日、よっぽどなことがあったんでしょうね※。夜になって、不整脈を出し、、、吐きまくり、、、
息子は心臓に疾患があるもんだから、ありがたいことに病気が彼を、わたしを、まもってくれました。
※ 息子が学校に行けなくなった理由はいまも知りません。
そしてね、理由なんてどうだっていい ですよ。
とか言いながらわたしもそのときは「なにがあったの?」と訊く親をやってしまいました が(笑)。
正しく怖がることの大切さ
学校に行かなくなって1週間が経とうとしたある日、「ああ、そういうことじゃないんだ」ってことに気づかされると、学校に戻すという発想が滑稽に見えた。
それはちょうど離婚に似ている。
離婚は善・悪で区別しきれるものではなく、離婚の原因は人それぞれ。
考え方も人それぞれ。
我慢の限界も、傷づく深さも、100人100通り。
けれどもあえて今以上に不幸になりたくて離婚を望んだ人を、わたしはまだ知らない。
背負わなければならないリスクはあっても、それでもなおかつその上で、自分を苦しめる自分の心にさよならして、
自分が自分でありたい、
自分を生きたい、とする生き方のひとつのように、
不登校もまた、その選択は生き方のひとつ。
学校に行くことで、自分を壊されていくことに危険を感じ、ただひたすら自分を見つめ、
「生」を考え、
自分の意思や主体性をもって自分自身を生きようと決断した、勇気あるすばらしきひとたちではないだろうか。
決して、怠けや甘えやわがままで出来ることではない。
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不登校と離婚はちがう
けれどもひとつ、不登校と離婚には決定的な違いがあります。
離婚は、離婚した翌日も外を歩けます。
レッテル化されてしまった「不登校」には、逃げ場がない。