こんにちは、AI-am(アイアム)の星山まりんです。
「一生を棒にふる」という言葉がありますが、あれはいい言葉です。
ひとつの判断基準でもあり、GOサインでもある。
スーツの群衆
先日、コーカサス三国(アゼルバイジャン、ジョージア、アルメニア)を旅していました。
その国々では、スーツを着た人を街なかで見かけることは、ほとんどありません。
それだけで街は、ずいぶんのびのびとして目に映る。
開発途上国(発展途上国)であること、スーツ姿のサラリーマンが見当たらないことは、国にとって、そこに住むひとびとにとって良いことなのか悪いことなのか、わたしにはわかりません(豊かさの原因にもなり、苦しさの原因にもなる)。
でも、日本へ帰ってきて、地下鉄に乗って家へ帰るとき、車内のスーツの群衆にはひどい違和感があった。
一生を棒にふらないように生きる人たち
もちろん、スーツで働くサラリーマンが悪いとか、ばかげているとか、そんなことはありません。これは大前提。
ただ、「群衆」であることが、違和感のもとだと思う。
生気のある「個人」が埋没していって、見えなくなる。
ひとりひとりには生活があって、楽しいこともうれしいこともあるに違いないのだけれど、それでも車内に、群衆に溜まる絶望的な色は、ひとつの答えでもあります。
そんな人たちを眺めていると、彼らはみんな一生を棒にふらないように、くたびれても生気をなくしても、スーツを着てこの電車に乗っているのかなあと、思いました。
学校に行かないことも「一生を棒にふる」こと?
ときどき、学校に行かないことも「一生を棒にふる」ことのひとつのように捉えられます。
不登校とか、あるいは高校や大学をやめるとかね。
その「一生」って、どんなものを指すんでしょう。
「個人」ではなく、「群衆」のことか?
「人生は楽しむためにある」などというけれど
そもそも、棒にふるほどの一生なんてあるんだろうか。
棒にふることを恐れるほどの一生。
実際にはすべてがまっさらにリセットされるわけじゃないし、ふってみたところでまた別の一生がある。
往往にして、棒にふるくらいのことをやらかしている人のほうが楽しそうだということ、ありませんか。
少なくともそういう人たちは、電車に乗ったってそれほど絶望的な顔で携帯を覗きこんではいない。
「人生は楽しむためにある」などというけれど、それがほんとうなら、「棒をふらないように」生きることは、人生を謳歌していないということになるかもしれません。
傷がつかないように慎重に守りぬくよりも、使いこんだ革のようにやわらかいのが、わたしはいいなと思う。
おもしろさ、楽しさ、愉快さよりも、ふと必要以上の保身を選ぼうとしているとき、より「一生を棒にふるような」ものを選ぶのは、けっこういい指針です(おもしろい、楽しい、愉快な人生にしたいという場合は)。