こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山まりん です。
不登校問題を解決するためには当事者、つまり子どもの声(意見)を聞くべきだ、という。
でも、解決したがっているのは大人ばかりで、行かずにすめば、それが苦にならない自分になることができれば、べつに問題でもなんでもない。
問題がなければ解決もない
不登校に限ったことではないけど、問題というのは、誰かがなにかを問題にすることで、はじめてかたちになる。
問題があるから解決があって、問題がなければ解決もない。
不登校問題なんていうものが存在するのも、誰かがそれを問題だと捉えているから。
じゃあそれは誰なのかというと、当事者の子ども自身ではなく、そのまわりの、あるいはお偉い、大人たち。
やっかいなのは、お国のためにはたらく人間育成ができなくなるという点で不登校を問題視する人々ではなく、ただ個人的な善意から、良心から、不登校を問題視する人々なんだと思う。
少なくとも、多くの子どもの身近にいるのは、そういう人々だ。
「聞く」ことと「聞き出す」こと
あれこれと「してあげる」ことをやめて、子どもの希望、まっすぐな声を聞こうという。
でも、それって、「聞き出している」んじゃないか?
聞くなら、子どもが言ったことを聞けばいい。
まだ言ってもいないことを「聞いてあげる」なら、結局いつもの「よけいなお世話」というやつになってしまう。
子どもの言ったこと、あるいはからだで訴えたことのひとつひとつ、これまで大人たちは聞いてきただろうか?
相手がまるで聞こうとしなければ、話す気もなくなる。
それで今度は「子どもたちの声を聞こう」という(子どもはオモチャかなにか?)。
子どもがなんでも言える環境をととのえるほうが、よっぽど重要なことで、優先するべきことだと思う。
自分をとがめることなく生きる
法にふれるようなことならともかく、現状、不登校はとがめられるようなことじゃない。
もちろん、どこを切り取ってもすばらしい社会だとはいえないし、子どものために社会を変えてあげる、というはたらきを否定もしないけれど、わたしは、あまり必要がないように思う。
望みどおりに変化した社会で、もしまたその枠からはみだしたら、結局おなじことを繰りかえすんだし(「社会が悪い」)。
それならば、どんな社会であれ、そこにある枠からはみだしていてもいなくても、自分をとがめることなく生きられる人間であるほうが、楽だ。
愛をもって、放っておいてくれ。
それが最終的に辿りつく子どもの「声」のような気がする。
問題にしてくれるな、と。
少なくとも、わたしならそういう声を発する。
放っておいてくれないひとたちに向けて。