2024年3月2日、奈良県生駒市で「子どもを信じるってどういうこと?」をテーマに講演会が開催されました。
「子どもを信じるってどういうこと?」を、
1.「信じる」ってどういうこと?
2.「こども」を「信じる」ってどういうこと?
3.「不登校」ってどういうこと?
4.「不登校」の「こども」を「信じる」ってどういうこと?
に沿ってのおはなしと、参加者の方々からのご質問にこたえさせていただきました。この記事はそのレポートです。
お越しくださったみなさん、ありがとうございました。
わたしたち(よっぴーまりん)を呼んでくださった足立裕美さん、ありがとうございました。
主催してくださった「フリースクール和草」さん、和草・親の会「にこママカフェ」さん、ありがとうございました。
スタッフのみなさん、ありがとうございました。
司会の美奈子さん、ありがとうございました。
もくじ
「すべては一人からはじまる」情熱を咲かせる発起者・足立裕美さん
こうして講演会に呼んでいただくたび思うことなのですが、(講演会もまた)事を起こすはじまりっていうのは、いつだって ”一人” からなんですよね。一人の ”やりたい!” からはじまる。
今回、わたしたち(よっぴーまりん)を呼んでくださった足立裕美さんもそうでした。
わたしたちの話をききたくて、わたしたちの講演を開催したい。その ”やりたい!” を実現するために、”一人” 最初の一歩を踏み出した。傷つくかもしれない……損をするかもしれない……そういった懸念だってあっただろうに、それでもそれらを負って。
わたしたちは講演に呼ばれるのがとても好きで、その理由のひとつが、起こす決心をされ、最初の一歩を踏み出されたひとと会わせてもらえるから。実体としてとらえることができない「情熱」と会わせてもらえるから。
裕美さんとの出会いは古く、もう20年以上も前(よっぴーの30歳代、まりんの6歳〜を存じられている^^)。
そのころ裕美さんはフリースクールでスタッフをされていて、あるフォーラムが行われた折りに、裕美さんが語られたこどもとの関わりにたいして「情熱的なひとだなぁ」と思ったものでした。
だけども今回、長い月日を経て再会し強く思ったのは、裕美さんは情熱「的」なひとではなく、『情熱の薔薇』のごとく情熱を胸に咲かせ、現在も水をあげ続けているひとでした。「何をなすか」ではなく、「何をなそうと胸を焦がすか」のひとだなって。
裕美さんがフリースクールでスタッフをされていた当時、裕美さんとまりんの間で、とある出来事があったんですね。でもそれは、99%の親(や大人、教師)がこどもにたいして何気なくやっている、ちっちゃなちっちゃな行為に過ぎない。仮にそのことをこどもに指摘されたとしても、多くは気にもとめない(もしくは「こども」を「下」にみているから怒っちゃうような)ことです。
けど裕美さんはそうじゃなかった。まりんが指摘したことも、真摯に受け止められた。まりんのことだけじゃなく、きっとそれまでにも、そのあとも、痛みをこぼさないよう色褪せないよう拾い集め、それらを学びの種にかえて、なそうと胸を焦がす情熱への活力の源泉にしてこられていたのじゃないかな。
今はふたりの子のおかあさんでもいらっしゃるのだけど、親の多くが「この子をどう育てようか」と慮ってこどもと関わるなか、(信号機でたとえると)青の次は黄色が点滅し赤になる、といった知識にのっとった関わりではなく、傾聴などといった(こどもを馬鹿にした)技法でもなく、目の前にいるこどもをみることができるよう、こどもの声がきこえてくるよう、水をあげ自分のこころの力を育てられているのを目にして、20年以上も前の情熱がいまも咲いている! そう思ったのでした。
「フリースクール和草」活動報告会
今回の講演会は、生駒市の「フリースクール和草」さん(https://nikogusa510.com/freeschool/)の活動報告会とあわせて開催。2023年度の活動風景や、スタートした中等部の紹介など、盛りだくさんの内容でした。
信じるってどういうこと?
「子どもを信じるってどういうこと?」というテーマをいただき、まずは「信じる」ってどういうこと? からおはなししました。
自分を「信じる」こともあるけれど、基本的には他者や外部に対して、わたしたちは「信じる」をします。それはたいてい未来に向かっているもので、まだ結果や答えの見えない事柄について、あらかじめ未来を(ある程度)定めようとすること。
わからないことは誰だって不安を伴うから、多少なりともなにかを信じられないと、なかなかやっていけません。
じゃあ、「“こども”を信じる」ってどういうことだろう?
「信じる」ことと「期待する」こと
「こどもを信じる」って、よく使われる言葉なんだけれど、実はとても抽象的ですよね。こどものなにを信じる? なにを信じてる?
よっぴーがこどものころ、親の「あなたのこと信じてるから」という言葉は、脅迫的に感じていました。信じてるなら信じてるって言わんでええやん、それって、早い話が「親の期待通りにしなさいよ」って言ってるだけやん、と。
わたしたちも本やブログ、講演会などで「信じる」「信じている」なんて言葉を使うことはあるけれど、それは言い換えれば「信じてない」というか、「“信じる”ってものがない」状態なんですよね。
「信じる」には、(こどもに)こうなってほしいという欲望があって、そうならないかもしれないという不安が含まれている。
「“信じる”ってものがない」とき、親の我欲や期待はないも同然です。
だから、「こどもを信じる」ことは、親自身の考えやスタイルの枠組みから、まったく自分ではないこどもの過去・現在・未来に見通しをつけることになってしまう。「自分の思うとおりになる」ことを信じて、他者であるこどもの不確定性や流動性にアタリをつけて、不安を安心で置き換えられるように、現在を正当化してしまう。
自分のために必要なことではあるのだけれど、ごく近しい他人であるこどもは、それでもけっして自分自身ではないのに、です。
「不登校」の「こども」を「信じる」ってどういうこと?
学校(一条校)に行っていない人には「なんで?」と聞くのに、学校に行っている人には「なんで?」って聞かないなど、不登校をしていると、そんな不思議がみなさんもたくさんあったと思うのだけど、「信じる」もその(不登校不思議あるあるの)ひとつじゃないかな。
「不登校」がただの不登校なら、「自由」や「多様」「あるがまま」などと同じで、「信じる」もなにもないんですよね。
「不登校」っていうのは、学校に行っていないってことです。
学校に行っている子は学校に行っているだけで、学校に行っていない子は学校に行っていないだけ。どちらも基本的には状態の一種でしかないはずなんだけれど、「不登校」だけが、”状態” ではなく ”出来事” としてみなされてしまいがち。
もちろん、身近な親や大人、社会の価値観を内面化する年ごろになると、こども自身、それを出来事として捉えることだってよくあります。
結果として、「不登校」は、「信じる」が必要になるような出来事になっている。
親であるわたしたちがまず取っ払えたらいいのは、親はこどもより「わかっている」という前提なんだろうと思います。
人生を、将来を、明日を、「わかっている」と思い込んでしまっているから、「わかっていない」人に教えようとしてしまう。
「わからない」が前提なら、「こどもを信じる」もすっと消えていって、「こどもを信じている」になるんじゃないかな。
「子どもを信じるってどういうこと?」という話をするのなら一年くらいは必要なので(笑)、ほんの触りではあったのだけど、そんなおはなしをしました。
たくさんのご質問ありがとうございました!
後半の質疑応答タイムでは、
- YouTubeをずっと見ているこどもを見守るべき?
- こどもとの関わり方は?
- デモクラティックスクール(サドベリースクール)ってどんなところ?
- 「好きなことばかりしているなんて、大人になって大丈夫?」という意見についてどう思われますか?
- 「親としてのふるまい」をしないと社会は許してくれない気がするけれど、どう折り合いをつければいい?
- 「干渉」の線引きは?
- 価値観のちがう夫婦間でどうすれば足並みを揃えられるか?
- etc
そのほか、たくさんのご質問をいただき、おはなしさせていただきました。
本当にありがとうございました!
おいしい時間だった懇親会&打ち上げ
講演会のあとは、「フリースクール和草」さんに場を移して、懇親会&打ち上げ!
空き家だった古民家をお借りして活動しているんです、と案内されながら敷地に入っていくと、一足先に会場から戻ってきていたこどもたちの賑やかな声や、懇親会の準備をしている親たちの楽しげな声が響き渡っていたんですね。
その豊かさに、「ああ、この建物(学舎)は、いつもこうして屈託ないさざめきや活気が、柱や梁、天井や床に浸み込んでいってるんだなぁ」と思うやウルウルきて、どんなにか舎が喜んでいることだろうって、玄関ですでに感に打たれちゃいました(案内ツアー、ありがとうございました!)。
建物が喜んでいる、こどもたちがはしゃいでいる、おとなたちが和らいでいる、そんな最高級のおいしい時間のなか、保護者の方々がご用意してくださったお料理をいただきながら、おしゃべりは尽きないのでした〜
「フリースクール和草」保護者さんの感想
お越しくださった方々の感想
いただいた感想の一部です。たくさんありがとうございました!
とてもシンプルな考えが背中を押してくれました。「どうする?」の話し合い、大切にしたいと思います。子どもの「今」を大切に会話したいです。
子どもは子どもだということ、そこがしっかり分かってから「信じること」が分かってくるのかなって思いました。とてもすてきな親子なんだなって思いました。
息子が不登校になって2年ですが、不登校を大きな出来事としてとらえていましたし、息子への期待や不安を解消したい気持ちにとらわれていたことに気付きました。よっぴーさんの考え方は目からうろこでした。
よっぴー親子のお話で、「信じる」ことが、わかりやすく、腑に落ちました。
よっぴーさん、まりんさんの関係性がいいなあって思いました。まずは、こどもたちの「あのね」をいっぱい聞きたいと思います。
大人が楽しくいることが子どもにとってもよいことなのだと思うことができました。よっぴーさんのお話を聞いてると、思いかえせば不思議だなと思うこと、考えないとなと思うことがたくさんありました。特に子どもに対して、どう育てたかではなく、どんな関係を築くか、ということばが印象的でした。
心に響くことが沢山で、皆さんの質問の答えからも沢山の気づきを得られました。今ここを大切に、子どもたちとの時間を大切におしゃべりを楽しんでいこうと思います。
よっぴーさんのお話し、例えがおもしろくて、文章だけ見たら難しそうだったけれど、納得いくお話でした!
例え話がすごく分かりやすくて、子供との関係性へのモヤが晴れた気がします。
自分の明日もわからない
↓今回の講演会に向け、Facebookに投稿したもの
ある学校パンフレットに、《共感できなくても理解を理解できなくても尊重を》と書かれてあった。
それを見て、足がすくんだ。
なんて暴力的なんだ、って思った。
このリズムでいくなら続きは《尊重できなくても共感を》になりそうだな、でもってグルグルグルグル言葉だけが滑り回ってそうだな、そんなことを思った。
鈍感おとなが発する「こどもを信じる」と同じだな、そうも思った。
「こどもを信じるってどういうこと?」。このお題をいただいてからこっち、二人(よっぴーまりん)で「こどもを信じるってどういうことやろか?」と数えきれない時間、話してきた。
ひとりモンモンと考えこむんじゃなく、親と子カジュアルに、けどシンセリティに、あ〜かなこ〜かなと話し込めるのは好いな。そこには安易な共感はなく、嘘っぱちの理解もなく、破れた尊重もなくて。
このような時間をいただけたこと、ありがとうございました。
今回の場合の「こどもを信じるってどういうこと?」は、こどもが不登校するようになったのだけど / 不登校しているんだけど、「学校(一条校)に登校していないこどもを信じるってどういうこと?」であろうから、
1.「信じる」ってどういうこと?
2.「こども」を「信じる」ってどういうこと?
3.「不登校」ってどういうこと?
4.「不登校」の「こども」を「信じる」ってどういうこと?
と順を追っておはなしさせていただいたのだけど、
上のパンフレットで言うところの共感→理解→尊重と同じように、「不安、だから→信じる」だと、上滑りして根っこは腹に育たないんだなぁと、あらためてわたしたちも学ぶところとなりました。
自分の明日もわからないというのに、他人の明日が、なぜにわかるんだろう。
どこかで得てきた情報で親はひととき安心したり、こどもを動かしたり(”動かさない” をするときも)、そうやってこどもの将来を信じる(期待する)とき、こどもはどうなんだろう? こどもにとって、どうなんだろう?
「おかあさ〜ん」 「は〜い、◯◯(こどもの名前)」
「おとうさ〜ん」 「は〜い、◯◯」
こういうことじゃないのかな。
いま、目の前にいるこどもがなにかはなした。この積み重ねなんじゃないのかな。
はなし、止みませんね^^;
広く深く発展していけるお題をくださり、ありがとうございました。またね。
よっぴー、まりんへの講演会(おはなし会やおしゃべり会)のご依頼は随時受けつけています!
トークライブはやっぱりいい!目の前にいる人が好きだ。
今回のようなテーマのお話も、また違ったお話も、聞きたいと思うことを教えてください。
わたしたちは、国内へも国外へも、どこへでも飛んでいきます♪
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