こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山まりん です。
「不登校」という言葉が一般的になってくると、最近は「完全不登校」という言葉もちらほら耳にするようになりました。
でもこれを言っているのはたいてい親御さんがたで、子どもが使っているところは、わたしはいまだに見かけたことがありません。
不登校という意識はなかった
わたしは、小学校に入学してからまもなく学校へ行かなくなり、結果的には小・中・高と通わなかったわけですが、自分が完全不登校だったという気も、そもそも不登校だったという気もしません。
小学校を嫌っていたわけでも、憎んでいたわけでもなかったし、ただ好みじゃなかったから行かなかったというだけで、負の感情とか、敵意はなかった。
「二度と行くか」みたいに思ったことも、ない。
子どもは「不登校をしたい」わけじゃない
「完全不登校」というと、つまり学校へ行ったり行かなかったりではなく、まったく行かない(と決める)ことを指します。
それにどんな意味があるのだろうと、思う。
「学校に行きたくない」子どもがたくさんいるなかで、「不登校をしたい」という子どもはいるでしょうか。
多くの子どもは、不登校をしたいわけじゃありません。
脈絡もなしに「不登校願望」みたいなものが生まれるわけでもなくて、そもそも、ただ行きたくないだけ。
一ヶ月、一年、ましてや六年間や三年間のあいだずっと行きたくないかって、そんなことはわからない。
学校に行かないと「決める」必要はない
べつに、学校に行かない、と「決める」必要はありません(もちろん、自分のことなら決めたっていいけど)。
今後またそれ以外を選ぶことだって、ちっともかまわない。
でも、親が自分のことを「完全不登校」と分類していたら、学校へふと行きたくなったとき「登校」することに、よけいな勇気が必要になりませんか。
あるいは、まるで学校へ行っちゃいけないみたいな、ブレッシャー。
子どもの心がわりを想定するべきというのではなく、なんであれ、今より先の日の状態までひっくるめて親から自分(子ども)について断定されるのは息苦しいし、変だな、というはなしです。
感情に名前をつけて分類したがることと、いずれかに振り切ってほしがるのは、大人のクセのように思う。
未来をたしかめる必要はない
学校へ行きたくない子どもは、不登校になりたいんじゃなく、学校へ行きたくないだけ。
逆の場合だって、そうです(あ、でも、皆勤賞を獲りたいひとはいるかもしれない)。
この先もずっとそうかなんて、たしかめる必要はありません。
なにかにひとすじであることばかりが(なぜか)美しくみえるけど、うつろうこともその例外じゃない。
絶対にそう、と、わたしは思う。