こんにちは、AI-am(アイアム)の吉田 晃子です。
20日に投稿した記事『【義務教育の子を持つ親必見!】教育現場に氾濫する人権侵害や犯罪をいくつ知っていますか?』で「花まる」のことを書きました。
その際に、「花まる表」の画像と、「花まるノート」の画像を探したんですね。
そんときのこと!
「花まるノート」
えええー、なにこれ、こわいよーーー!! とおもった画像(サイト)を見つけました。
1年生の花丸ノートから順に、2年生の花丸ノート、、、3年、4年、5年、、、 6年生の花丸ノートまでアップされてあります。
冗談抜き、わたしはこわいです。
もしわたしが、いまのわたしのまま、子どもで(コナンみたいに)、「あなたのノートは優秀だから貼り出させてもらってもいいですか?」と聞かれたら、NO!
ご辞退とともに、この制度の廃止もお願いします。
津々浦々はなまる表彰
しかしながら驚いたのはこの「花まるノート」の表彰は、ここ1校だけではないってことでした。
「小学校 花丸ノート」とか、「小学校 はなまるノート」などで検索すると、キーワードにひっかかった各小学校のサイトがずらぁ〜と出ます。
1校ずつクリックして見ていくと、先生が 優秀とおもわれた子どものノートを、各学年ごとに掲示板等に貼り出しているではないですか!
たくさんのご相談を受けたりもしていますが、「花まるノートが掲示されるんです」といったご相談はなかったので知らずにいてました。
暴力性
各都道府県の小学校のサイトをランダムに見てみました。
授業風景を載せられている学校が多く、コメント付きで写真をあげられたりしてるんですね。
それらを見ていておもったのは、身体能力の個人差を無視した暴力性 です。
多様性のかけらもない。
ノートの取り方
書かせることも暴力性のひとつです。
ノートの取り方なんて自由でしょ?
なんでノートの取り方にまで「支配と服従」が陣取るの?
先生が黒板に書いたものを、
- ノートに取りたい子はノートに取ればいい
- 写真で取りたい子はスマホなどで写真を撮ればいい
- 教科書に書き込んでもいい
- なんにも取らなくたっていい
- 録音や録画を取っておけば、あとで一時停止させながら 自分のペース で、授業そのものも取れるじゃないですか
同じノート
あと、なんでみんなノートが同じなの? ともおもいます。
しかも各教科によってノートがわけられているじゃないですか? 2017年にもなった今も!
1970年の発売以来、子どもたちに愛され続けてきたロングセラー商品(商品説明より)↓↓
ノートの種類
海外に行くと、市場(スーパー)と本屋さんと、あと文房具屋さんに必ずといっていいほど行くのですが、
学年ごとに、科目ごとに、ノートが指定されているのって日本ぐらいじゃないかな、とおもいます。
たとえばアメリカはバインダーが使用されていますが、これ、いいよね、っておもいます(わたしも中学以降、バインダーを使ってた)。
科目ごとのノートを用意する必要も、何冊も持ち歩く必要もないです。
学年ごとに買い替える必要もありません。
ルーズリーフの束のみ。
必要なページだけ持って帰ることもできるし、ノートの提出もそのページだけで済みます。
ルーズリーフの束を学校と家両方に置いておけば便利で、授業中走り書きしたメモを、きれいに好みのノートにしたいのなら、そのページだけ持って帰って清書することも安易です。
ページの順番を入れ替えたり、重要なものだけまとめたりなどの編集も簡単にできます。
学校はなにを教えたいのか
そもそも、花まるって欲しいか? もらって嬉しいか? とおもい、これまたググると、嬉しい人多いみたいですね。
花まる欲しさにがんばらせている親がいて、花まる欲しさにがんばっている子がいる……。
『【義務教育の子を持つ親必見!】教育現場に氾濫する人権侵害や犯罪をいくつ知っていますか?』のなかで、
学校と教育委員会は、学校教育をコントロールすることが目的化している ことに気づいていないのでしょうか。
と書きましたが、
気づいていないのではなく、逆! 学校教育を成功させている ということですよね。
ノートの種類、ノートの取り方に事足りず、四角い箱からちょっとでもはみ出したら × になる漢字の書き取りにみるように、同じにするという強制は四隅の端まで襲いかかり、わたしたちを骨抜きにしていきます。
花まるからの解放
日本の場合、好みのノートを使っていい(&取り方)許可が降りるのは大学生になってからです。
どんなノート(種類や取り方)が自分に一番合っているのか? どうして小学生からじゃダメなんでしょうか。
花まるをもらうことが学習なのではありません。
他者からの評価は必要ない、そうわたしは考えてはいますが、子どもたちに評価をくださないといけない立場の先生であるならば、子どもを馬鹿にしないで、適正な評価をお願いしたいです。
優越感や劣等感といった「感」を与えて、半分あきらめて生きることを教えないでいただきたい。
それ、教育ではなく、コントロールです。