こんにちは、
AI-amの
よっぴー です。
ここにこそある、教育の神髄。林竹二さんの書籍から『教育亡国』と『教育の根底にあるもの』を紹介します。
もくじ
林 竹二著『教育亡国』1983年発行
日本に、教育はあるのか?
明白に、いまの日本に教育はない。
教育をひとまとめにして財界、産業界に「売り渡した」文部省。
日本の学校は、水俣の海になってしまった。
学校が、子どもの生きられない場所となった。
と30年以上も前に語っていた 林 竹二 さんの言葉です。
あの夢のように美しい水俣の海が、チッソのたれ流した有機水銀の濃厚汚染をうけて、死の海に帰られてしまった。この海の魚や貝を食べた猫は、脳を犯されて、狂いまわっては相ついで海に飛び込んで死んだ。鳥が方向感覚を狂わされて、群れをなして海に突っ込んで死に、岩に激突して死んだ。
いま、日本の学校の子どもたちをとらえている狂気の現象は、これと同じ異常現象なのではないのか。学校という世界が、チッソのたれ流した有機水銀のような何らかの「原因物質」によって濃厚汚染をうけて、根底からの環境破壊がおきてしまった。子どもたちは、その学校で生きるほかない。子どもたちに見られる狂気の現象を、学校という環境が根底から破壊されてしまっていることから生じた異常現象としてとらえるのでないかぎり、事態への正しい対応は不可能である。
いま緊急に求められているのは、学校という世界に。この根底からの環境破壊をもちこんでしまったものが何なのか、その「原因物質」をつきとめる努力であろう。私は本書で、学校という教育の場から教育を追い出して、子どもの生きられない世界に変えてしまったものが何であったのかについて、私なりにさぐりを入れてみようと試みてみた。引用:『教育亡国』まえがき
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林 竹二著『教育の根底にあるもの』1991年発行
日本に教育はあるのだろうか
学校でいい成績を取らなければ人生の敗北者になるほかないんだというようなことを教え込むでしょう。そういうのがみんな子どもの中へ蓄積されていくわけです。
試験の結果、点数によってあらわされない一切の価値が学校から閉め出されてしまっています。学校は人間を人間として育てる場所ではなくなってしまったわけです。私の言葉で言えば、学校というものは、ことに中学校が「人間性破壊の工場」になっているわけです。引用:『教育の根底にあるもの』/林 竹二
いのちを問いなおす
教育というものは、教師の力で子どもを変えることじゃないんです。子どもの中には生命があって、生命というものはふだんに自分を成長させ、自分を変化させる力であるわけですね。そういう力が働く場所を用意することが教育なんですね。
(略)
いまの学校の先生は、みんな権力で子どもを動かしているわけですよ。ことにいま中学校にひどくなってますね。
ほんとうに教師が教師として子どもと教育的なかかわりを持つためには、まず第一に闘わなければならないのは、自分自身の中における権力者性ですね。引用:『教育の根底にあるもの』/林 竹二
「わかくさ学級」のこと
教育を私は、基本的には、人間の子の人間として成長するのを助ける仕事だと考えている。だから、生命にたいする畏敬を欠けば教育は成立しない。だが、日本の学校教育の致命的な欠陥は、生命への畏敬の念を欠いていることだろう。(略)
そのことが、日本の学校をじつに荒涼をきわめた世界にしてしまっている。教育がなくて調教だけが教育の名においてまかり通っている。そして、もっと恐ろしいことは、教師たちがその言いようもない無惨な荒涼に直面しながら、それを異常と感じていないことである。……
引用:『教育の根底にあるもの』/林 竹二
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自分の心のなかに動いているものと向き合う
『教育の根底にあるもの』には、林竹二先生の授業を受けている子どもたちの写真が豊富に掲載されているんですね。
その子どもたちの表情はあまりに美しくて、涙をこぼしてしまいます(何度みても!)。
林竹二さんは言います。「授業というものは、その子どもが精一杯に生きるような時間にならなければならない」と。
教育の本質
いったい、「学校」とはなんでしょう?
なぜ、「学校」に行くのでしょうか?
「このままでは日本の学校教育はヤバい」とおもった文科省や、教育委員会、教育学者さん、自治体さん、現場の教師、保護者たちが、さまざまなことを行ってきた集積。。。
わたしたちがいま目にしているありさまは「問題」ではなく、「答え」です。
「勉強しなさい」「塾に行きなさい」「いい点数をとりなさい」。方法論やスキルが教育の中心となりました。企業と結びついているから、しかたがないですね。
優秀な労働力者となり、活発な消費活動を行う消費者になってもらわないと困ります。
宿題もせずに瞳がキラキラすることをされていては困ります。ため息をついて薬を飲んでがんばってもらわないと困ります。
上司の言うことを黙って聞いて、血尿が出るまで働いて、売り上げノルマを達成する人材育成、それが学校教育の事実上の目標に掲げられている時代です。
教育の本質が分からなければ、子どもたちはこの世界を去り続けていくことになるんでしょう。
「見張っている」と「見守っている」はちがう
自分が追求の主体になって、自分の追求したいものがあってそれを追っかける。
追求しているそのときっていうのは、なんの恥じらいもなければ、他に対して閉ざすなんて気持ちもない。ほんとに真剣です。だから緊張と集中ができるわけです。
そこに「教える」が入ると、緊張と集中は途端に消えていくのです。
学校は人間的な価値をなによりも大切にする場所でなければ教育はできません。