学校を休みたい、学校に行きたくない子どもの能動性について

ammこんにちは、AI-am(アイアム)星山まりん です。

子どもを能動的とか主体的を育てようという風潮があるなかで、もうすでに子どもが持っている力は視界に入ってないっていうことが、多々とあります。

LINE@ には、ありがたいことにたくさんのメッセージをいただきます。

親御さんからのものもあれば、学校に行っていないとか、行きたくない休みたい、というご本人からのものも多くあって、これはもうすでに能動的なことだよな、と思う。

「能動的=活発」ではない

受動的でなく能動的に生きよう、能動的に生きられる人間になろう、とよく言われるようになりました。
自分軸とか、主体性と言い換えてもいいかもしれません。

でも、「受動的ではなく能動的な子ども」というと、なんだかこう、よいことをするイメージというか、明るいイメージがくっついてくるように感じます。

活発で、創造的で、前向きみたいな、そんな感じ。

でもそれは「明るい子」や「活発な子」であって、必ずしも「能動的な子」に共通するわけじゃありません。

能動的になる対象が大人のよろこぶ事柄ではなかったり、好感をもたれやすい性格ではなかったとしても、他や外へと動くなら、それは能動的だってことです。

 

学校を休んだり、不登校になれるのは能動性があるからこそ

学校に行けないとか、行きたくないとか休みたい、っていうのは、社会的なイメージからすれば、後ろ向きなことであったり、改善するべきことと捉えられています。

ましてやそれが、能動的なことだとか、主体性のあることだとは思われていない。

でも、自分はこうしたい、という気持ちを外へあらわす言動は、能動性があってはじめてできることです。

だって、どんなに待ちわびたって、こちらからなにも言っていないのに親がいきなり「学校に行かないことにしてみたら?」と言ってくれることは、まあ、ない。

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LINE@ にも、たくさんの

「学校を休みたい」
「学校に行きたくない」

というメッセージをいただきます。

これって、その方が自分の気持ちを文字にして、わたしたちに送信しているってことで、それだけでもう、能動的な働きのひとつだなあ、と思うのです。

 

文字化していると親にも表現しやすくなる

ほんとは、学校を休むも行くも行かないも子どもが決めればいいことなんですが、現状、ここにはよく「親の許可」が介入します。

でもその親がわかってくれないとか、そもそも休みたいなんて伝えられないとかで、わたしたちに向かって文字化してみる。

ふしぎなもので、どこかで声にしたり文字にしたりしていると、さらにほかのところで表現することのハードルが、だんだん下がってきます。つまり、親に対してとか。

わたしたちが直接的になにかを解決することはできませんが、そういう、ハードルを下げていく梯子の一部になることだったり、話しかけるなら部屋の壁よりちょっとはいいかな、と思ってもらえたらうれしいです。

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(いただいているLINEにも、近々また、ブログでお答えしますね!)

 

今日の本

目的なき人生を生きる / 山内志朗

人生ずっとは、がんばれない。『小さな倫理学』の著者による、解放の哲学。

人生を意味だらけだと思うと、「つまずきの石」につまずく。
死ぬまで競争? 勘弁して。自己実現など、小賢しい。終活、就活、余計なお世話。
それでも世間はやかましい。
社会に煽られ、急かされ続ける人生を、一体いつまで過ごせばいいのか。
「それは何のためだ、何の役に立つ?」世間は「目的を持て!」とうるさい。

しかし、人は生まれる前にその問いを立てたのか、死ぬ直前にその問いを立てるのか??
「人生に目的はない」。そう考えた方が豊かな人生を過ごせると、反倫理を倫理学者が真面目に提示する。

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