こんにちは、
AI-am(アイアム)のよっぴーまりんです。
雨ですね。
日本人のわたしが日本にいると、梅雨の季節がいちばん肌になじむような気がします。
6月15日は、兵庫・宝塚市にて「オールナイト座談会」が開催されるんですが、わたしたちは、あえてこの季節を選んだのでした。
雨がくれる安心感
わたしたちが2008年に立ち上げた「デモクラティック・フィールド のらねこ」というコミュニティでは、不定期で「のらねこたより」という冊子を発行していました。
ある年の6月に発行した「のらねこたより」では、梅雨によせた よっぴー のエッセイを掲載したことがあります。
これは↓ その全文。
日本語の風景
「日本」がいちばん美しい梅雨季。
日本を旅したい時季。○
ふと目が覚めて、雨の音をききつけた。窓の外をのぞくと、アスファルトの夜明けを、湖面のように光らせている。
(こころの深みに降りていって、そこへ遊ぼう)
朝まだき。雨が悪者となる都会をぬけて、梅雨の似合う場所へと向かった。薄雲鼠の空のもと、山々は、藍と紫をまじえた、かすかな淡彩をくりひろげていた。その山を背景にして、降りみ降らずみの小糠雨が、湿やかにけぶっている。無音の雨声は、艶と翳のある緑はふくみのなかで、いよいよ冴えてゆくと匂う。一葉のかすかな揺れ。目をやると、音曲を仕込んだ独唱家のあまがえるが、うたいどころを知りて、密やかな時間にまどろんでいる。
黒南風が吹いた。
梅雨雲が降りてきた。
鼠色をした空気が切り抜かれて、土に、びしびしと穴をあけるみたいに、水玉が落ちてきた。「ザァーーー」
みるみるうちに、地雨にかえった。
月白の雨は、空で揉まれて、波を立てている。錫色の地上では、靄が、休んだり、足を早めたりとたなびきながら、四方を這う。そのつど山肌は、乳白や、鈍、蝋と、哀愁を含んだ色彩に濃淡をつけていく。
淡彩と墨絵。
なぜだろう。悲哀を隠したやわらかさと、周囲のしめやかな空気とが調和した、梅雨季個有の奥ゆかしい雨の景をながめていると、日本語の隅のほうで、じっとしている言葉が、そのむこうに訪ねてくる。
間接的な表現を好む、日本人の永年の習性と、こまやかなこころ遣いにみちている五月雨(陰暦五月に降る長雨。現在の梅雨)の行間は、似ているからだろうか。
もっと単純。雨の国にふさわしく、桜雨、甘雨、翠雨に青葉雨……。雨の呼び名が、四百語以上もある日本なのだから当然か。
それとも、人間の生は、哀切を軸に成り立っているからだろうか。だから、英語には訳せそうにない、ねのひびき、おとのふるえに出逢ったとき、味わい深いこころ模様になるのだろうか。
つまるところ、いのちの源・五月雨は、母なのかもしれない。水無月には、「月の道」の光がある。ひもねす、五月雨にすわりこんで、雨のすることをみていた。
「渇くな」
「渇くな」
木々の根に、じぼの気が降る。
◯
「日本語の風景」を書くにあたって、雨の名前を調べたら、四百語以上もあることを知ってびっくりした。
そのなかに、「洗車雨」というのがあった。七月六日に降る雨のことで、彦星さまが織姫さまに会うために、牛車を洗う水が雨になるといわれている。
七月七日に降る雨は、「酒涙雨」。これは雨のために会えなかったからではなく、年に一度しか会えない惜別の想いの涙だそうだ。
想像が湧いた。ならば、梅雨に降る雨は、織姫さまが、彦星さまとの逢瀬に纏う着物を紡むぎ、織っている糸ではないだろうか。そんなふうにおもって、空を見上げれば、織姫さまのしあわせがきこえてきそう。「糸雨」という呼び名はすでにあるから、「紡織雨」とでも名づけようか。日本には美しい単語がいっぱいあるのは、春夏秋冬の季節が非常にはっきりとしているからだろう。ひとつひとつの言葉が季節感を持っている。
梅雨季の雨の単語だけをみても、五月雨、洗車雨、酒涙雨のほかにも、青時雨、翠雨、早梅雨、走り梅雨、送り梅雨、戻り梅雨、荒梅雨など、たくさんの名前がある。
だからこそ不思議だ。日本の季節は「四季」といわれるが、ほんとうは、「五季」だったのではないかとおもう。猫は干支に入れてもらえなかったように、梅雨もまた季節に入れてもらえなかった?
ともに、何人たりとも犯すことできない崇高の魂すぎて。
その魂が、いま、日本の地におりている。語りかけてくる。新しい季節のはじまりは、どの時季もウキウキする。まるですべてが変わるように。夢を見る力を信じるように。
お元気ですか?
「雨が悪者になる都会」ですが、じつは、真夜中だけはその例外です。
なんとなく起きていた夜中に、家族とおしゃべりをすることは、特別な、親密さを生みます。
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そのとき雨が降っていたら、相手との親近感は、より、ずっと深まります。
じぶんたちのいる空間を、雨がていねいに囲う。
そうして部屋にみちる安心感と、ひっそりとした賑わいを共有する。
皮膚感覚を分け合うような、つながっている心地。
車なんかもそうですよね。
雨の夜道を走っているときだけわたしたちのもとに訪れる、ひっそりとした、なんにも話さなくても伝わるような、けれどなんでも話せそうな、あの空間。
ちょっとした共犯者みたいな関係性をつくる、そういう時間を、大好きなひとといっしょに、一日でもたくさん過ごせたらいいなと思います。
そんなことを思って、せっかくの6月にひらかれるオールナイト座談会は、梅雨らしい日程にしようと思ったのでした。
↓ これが、当時発行したのらねこたより。
自分の辞書が展開していくおもしろさ
6月15日のオールナイト座談会を開催してくれる、台所アル の店主、中山 日さえさんが先日、こんなことを書いてくださいました。
まだ小学生だった頃
兄が
「何のために勉強すると?」
「方程式とか、円周率とかって大人になってお父さんお母さんは使っとると!?」
と、父や母に喰ってかかったことがある。父や母は戸惑いを隠せず
「大人になればわかる」
とか、「お前自身のためだ」とか言う、歯切れの悪い答えだったように思う。兄は怒っていた。
腹からの質問に手応えのなかったこと。
きっと、自分のいのちの躍動を思い通りにできないことにも。私が親になり、シュタイナー教育に興味を持つようになった時に
シュタイナー学校の数学の先生から
数字の持つ美しさや、円周率から導き出されたものから、新しい惑星を見つけることができた、というようなお話をうかがった。先生の話を聞いた時、
兄が怒っていた時に
先生のような大人が
数の美しさや、円周率の持つ可能性を話してくれていたら
どうなっていたただろう、と思ったのを覚えている。そして、今。
「学校で学ぶということ、特に勉強というのは、すぐにはその価値がわからなくても、将来の自分のためになるものだといわれます。
でも、本人が価値を見出せない学びに、どんな価値があるんでしょう。
勉強っていうのは、そのとき自分自身が求めたからするもので、だからこそ自分自身のためになるし、豊かさや、学ぶことの美しさみたいなものが輝く。」〜小さな天才の育て方、育ち方
小・中・高に通わず大学に行った話吉田晃子・星山海琳著 より〜
こちらの方が今のわたしにはしっくりくる。
(こんな風に言う人が周りにおったら、どうやったっちゃろう?)当時の、お父さん、お母さんの答え。
シュタイナー学校の数学の先生の話。
海琳ちゃんの考え。
(この文章を綴った著者の海琳ちゃんは、17歳の夏に「大学に行こう」と思い立ち、繰り上がりの足し算もままならないところから、12時間の勉強時間で高校生までの数学を習得。見事国立大学に入学されました。自分から求め学んだ勉強の、しるしのひとつやなあ)
今となってはの物事やけど、今また考えたい。
子供の時に感じたこと、考えたこと、悔しかったこと、悲しかったこと、嬉しかったこと、
そして、それらを忘れてしまったこと、考えないようにしてきたこと。どれが正しい、とかではなく
わたしは、一つの物事から視点をシフトできたのが楽しい。
そして、このお二人(吉田晃子さん、星山海海琳ちゃん)は
その二人のあり方から、ばんばん視点のシフトをさせてくれるように思います。自分の辞書が、展開していくおもしろさを体感してみませんか。
よっぴーとまりんと一晩中おしゃべりする会、
アルでやります(=´∀`)人(´∀`=)
今回で3回目のオールナイト座談会ですが、毎回、ほんとうにたのしみなんです(ちなみに第4回目は福島県!)。
みなさま、ぜひぜひお越しください。今回もたのしくなります!
お申し込み・お問い合わせ
よっぴーとまりんの、一晩中じゃから!!at台所アル
◯ 日時
2018年6月15日(金)21時から6月16日(土)6時まで 終了しました。レポートはこちら ➡︎ https://ai-am.net/180615ev-report
◯ 場所
台所アル
兵庫県福井町32-38
◯ 参加費
6000円+交通費(大阪からアルまでの車移動にかかる経費)を参加者の頭数で割った金額
※お子さん同伴でも大丈夫ですが、お子さんがご自分の意思で参加する場合は、年齢にかかわらず同額の参加費をいただきます。
◯ 定員
10名
※呑みたいもの、食べたいものをお持ちください(一晩やから、お酒もオケ♡)
※寝具が2組ほどしかないため、「眠る!」方は寝袋や毛布などをお持ちください。
※夕食が必要な方は19時くらいからアルで食べることができます(1000円)
参加お申し込みの際にお知らせください。