こんにちは。
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
差別はいけないことといいながら、ほとんどのおとなは子どもを差別しています。
ついつい思い通りにさせたくなる自分にさよならして、相手を尊重すること。子ども差別にもみんなが気づくようになってほしいとおもいます。
能力を否定する差別
「 世の中は変わらなくても自分は変わる」 の記事で書いたように、今でこそ差別はいけないこととされる時代となりましたが、半世紀前は、男尊女卑(人間とは認めるが、その能力を否定する差別)の非常に強い社会でした。
女性は結婚し、家に入り、嫁として、妻として、母として、主に忠実であらねばなりません。
単なるひとつの意見であろうとも、女性は男性に口答えをしてはいけないし、逆らうなんてのは御法度です。
能力を否定されているのだから、自身の事柄の選択権でさえ支配されていました。
野卑な言葉を聞いた子ども時代
そして恐ろしいことに、ひとたび子どもが産めない… となれば、人間であることを否定する差別へと変わりました。
双子を連れたお母さんには「畜生腹」 。
男児を授からない母もまた嫁失格。
ほかにも、部落差別、人種差別。あちこちで大人が吐く人間否定の野卑な言葉を聞きました。
差別心をゼロにすることは仙人にでもならない限りできません。今でも多くの差別はしているけれど、でも差別はいけないことだと頭ではわかるし、女性は男性より知識が劣っているなんて考えはおかしいこともみな知っているとおもいます。
が、 当時はそれら差別は、「差別」とすら思われてはいない時代でした。
子どもへの差別
利権を守るため、保身をはかるため。聞くに耐えない言い訳はテレビをつければ流れてきますが、男女差別。階級差別。職業差別。。。差別を差別と気づく時代にはなりました。
けれども、もっともっと身近なところで、日々差別していることがある。
そう、上述の差別、人間とは認めるが、その能力を否定する差別は、子どもに対しては未だ公然と行われています。差別を差別とすら思わずに。
子どもは正しい判断が出来ない?
放っておいては好き勝手する?
だから親や教師は子どもを管理せねばならず、その干渉に子どもは従わなければならない?
子ども(人間)の尊厳
体験が何かを変えるのではなくて、その体験をどうとらえるかで、人は紡がれていく。
わたしがわたしに還っているのは、わたし自身が障害をもって生まれてこられたから。わが子(息子)も同じくして、障害をもってこの世にやってきてくれたから。
それともうひとつは、子どもが公の学校には行かないことを選んでくれたから。
この3つだけが「おかげ」なのではないけれど、この3本の樹は、「苦」とは何であり、どのように起こり、いかにして解き放つか、という学びをギフトしてくれました。そうでなければ、
りんごの皮のむき方が自分とは違うというだけで…。
好みや、考えや、意思などが異なるというだけで…。
露骨に非情なまなざしを向け、見下した言動を浴びせもして、今も子ども(人間)の尊厳を傷つけていただろうなとおもうのです。
人は誰でも自分で学べる力をもっているのに、子どもがもつ学ぶ力は信頼しないで、その子の問題、それこそ学校に行く・行かないなんてゆうことも、一日24時間をどう使うかということも、自身が決めること。
「今日学校休んでもいい?」などのお尋ね言葉を子どもに吐かせて、不登校にマイナスイメージを持たせてしまったかもしれない。
人間同士
生まれてきたとき泣いた。お腹がすけば泣いた。おっぱ~い、おっぱ~いと言った。
自分を生きる力は生まれながらにして持っています。トツキトウカ前のその日から、みんなホンモノの樹を宿しています。
ついつい思い通りにさせたくなる自分にさよならして、相手を尊重すること。子ども差別にもみんなが気づくようになってほしいとおもいます。
人間同士なんだもん。差別意識なくして、励まし合っていきたい。
お父さんだけが偉いわけではなく、お母さんだけが偉いんでもなく、子どもが偉いのでもない。みんなそれぞれの役割があって、できることがあって、それで、ひとつ。