こんにちは、AI-amの星山まりんです。
子どもは働くことが好きなのに、大人になるとそうではなくなっている。
働くということの楽しさを親や大人たちにうばわれるから、「仕事」がいつしか「労働」になるから。
でもそれって当たり前でしょうがないこと、ではない。
子どもは洒落た外車よりも「はたらくくるま」が好き
行きたくて行きたくてしょうがなくて毎日学校へ通っている子どもがほとんどいないように、働きたくて働きたくてしょうがなくて就職して、通勤しているひとは、どちらかといえば少ない。
子どもは働くことが好きだ。
たとえばなにか家事(料理やそうじや、縫いものや)に名乗りでるときにも、子どもは「お手伝い」ではなく「仕事」をしようとしている。
けれど年齢をかさねるにつれ、働くことを敬遠したがるようになる。
働くとはつらいこと、という観念がしみついていく。
お金を稼ぐということを楽しんでいるわけでもないのに、仕事という労働の対価がお金である、そういう考え。
仕事はつらいけど暮らすために耐えなければいけないこと、と、くたびれた姿に教えられたりする。
うーん、ほんとに、そうか。そうかなあ。
大人が楽しそうにしていれば世の中は変わる
親や大人は子どもが仕事をしようとするのを「ごっこ遊び」と言ったり、「お手伝い」だと言って、「えらいね」と言って、子どもを、さも子どものように扱う。
もちろん「お手伝い」をするときもある(それが「えらい」のかどうかはまた別として)けれど、子どもは働くということに対してとても純粋で、働くことの本質みたいなものを知っている。
その姿を「お手伝い」と呼ぶのは、ずいぶん子どもを冒涜しているよなと思うし、そうやって子どもがもっている、働くことの楽しさを奪っていってしまうように思う。
大人の「働く」は、「労働」という言葉に近いかもしれない。
労働という言葉にあんまりいいイメージはない。おそらくは「労」という字のせいで。
苦労とか、労うとか、ご足労、とかか。やっぱりどれもしんどそうだ。
子どもはまだ現実がわかってないから(実際の子どもはいつも現実に生きている)、お金を稼ぐ必要がないから、だから労働をする必要はなくて、仕事をするにも楽しいだけでいられるんだと言うひとが、いるかもしれないな。
いや、でも、仕事が楽しくないということって、すごい問題じゃないんだろうか。
労働すること、を選んでいるのは、誰なのか。
やっぱりたくさんの大人が楽しそうにしていたら、世の中はぐっと変わると思う。
そういえば、赤ちゃんにだけは「泣くのが赤ちゃんの仕事」と言ったりする。
多少は比喩にせよ、そういう視点がないこともないということで、じゃ子どもはなにが仕事かと言ったら、「学校へ行くこと」らしい。
これって、一気になにかがすり替わっていて、おもしろい。