こんにちは、AI-amの吉田 晃子です。
学校教育という洗脳を解くための一冊、堀江貴文さんの新刊、『 すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 』を読みました。
学校は「常識」を植え付けるためにある
堀江貴文さんの新刊、『 すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論~ 』を読みましたー。
既存の教育を洗脳と呼び、そこから抜け出すことを推奨されている堀江さん。
本書の冒頭で、その「洗脳」のイメージをつかみやすくするために、宗教団体・オウム真理教のことを書かれているんですね。
でもって、「洗脳は悪い人たちによる特別な行為で、”常識的” に暮らしている自分とは関係のないものだ」と思っているのならそれは大違いだ。と。これ、ほんと、その通りです。
学校に行くのはあたりまえと思っていた方(親)のお子さんが不登校になって、いまは不登校から解放された親御さんなら「うん、うん」と頷かれるかとおもう、あの、学校信仰ですよ。
子どもが不登校になってくれなかったら、気づけなかったとおもう、あの学校信仰。気づいたあとも、あれ、最強のボンドでくっついてるもんだから、そうは簡単に剥がせなくてね……。
残念ながら、普通に暮らしている限り、「常識」という教義の危険性に気づく機会は少ない。それは「常識」の洗脳が、国家ぐるみで行われているからだ。国家は、全国に4万6000箇所もの “出先機関” を設け、この国で暮らす人たちすべてをその魔の手にかけている。
その出先機関とは、「学校」だ。
引用:『 すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論~ (光文社新書) 』
「やりたいことを我慢し、自分にブレーキをかけ、自分の可能性に蓋をすることを推奨する恐ろしい洗脳が、白昼堂々なされているのが今の学校なのだ」と堀江貴文さんは言い捨てます。
彼らはなぜ、誰を、どのように洗脳しようとしているのか?
どうして学校に行かなきゃいけないのか?
それらを知ることが、洗脳から逃れる第一歩になるはずだと願って、わたしたちを洗脳した「学校」の正体に迫られます。
「国つくり」のための学校
学校に行けないことが問題なのではなく、学校を選べないことが問題 の記事でわたしは、現在の学校教育のやっていることは、個の尊厳ではなく、国家が望む人間になるように、国が定めた規格品に適合させることだと書きました。
このことを本書は、「使いやすい労働者」を大量生産する工場 と小見出しをうって、さらに詳しく書かれています。
講演先で何度かお話しさせてもらった、産業革命時代につくられた「国つくり」のための学校のことも、堀江さんは平たく書かれていて、学校で教えられた常識がいかなるものか、手に取るように読めるかとおもいます。
子どもは人格的に完成していない。だから「あるべき人間像」としての道徳を教え、「完成」に導かなければいけない……日本の学校教育の芯にあるのはこうした考え方だ。一方では子どもたちの人権を語りながら、もう一方では子どもたちを未熟で不完全な存在として断じている。学校が嫌な場所になるのも当然のことだ。
結局、軍国時代に基礎が築かれた教育システムというのは、人を鞭打ち、「お前は半人前だ。早く一人前の軍人になって、戦えるようになれ」とけしかけるものでしかない。そしてこの21世紀になっても、大半の学校は、当時のシステムを考えなしに踏襲している。
引用:『 すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論~ (光文社新書) 』
情報化社会になってる21世紀に、学校だけが未だ産業社会でいます。まるで 明治18年(1885年)の亡霊を連れた教育亡国 です。
子どもたちを一箇所に集め、同じ時間、同じカリキュラムで、同じ教科書によって、たったひとつだけ用意した小さくて狭い枠のなかに無理やり押し込めようとしますが、そんなものに洗脳される使命はありません。
学校という教育の場から教育を追い出して、子ども「を」生きられない世界に変えてしまった……。
堀江さんは言われます。もう「学校」は必要ない と。
章のタイトル
上記は主に、第1章 学校は国策「洗脳機関」である からの感想です。
つづいて、第2章 G人材とL人材 。G人材は、世界規模 “グローバル” を行動範囲とする人材。L人材は、地元 “ローカル” に根付く人材のことで、学校がいらない理由と「所有」、これからの人々の幸福の指標となるものについて書かれています。
第3章 学びとは「没頭」である につながり(下記)、
第4章 三つの「タグ」で自分の価値を上げよ! では、「学校」と「貯金」は同じだとして、将来への「蓄え」を重んじる考え方のことを「貯金型思考」と呼びます。
第5章 会社はいますぐ辞められる は、タイトル通りで、学校による洗脳が骨の髄まで染みわたっている大人たちが洗脳から抜け出すにはどうすればよいのか? 1つしかない答えについて書かれています。
学びとは「没頭」である
何のために何をするのか、どんな風にするのか、すべてを自分で決め、自ら責任を負いながら突き進む力。新しい時代を楽しく生きるために必須のこの能力を、僕はシンプルに「没頭する力」と呼んでいる。
引用:『 すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論~ (光文社新書) 』
「学び」という言葉の定義について堀江さんは、「学び」とは没頭のこと、とされています。
脇目もふらずに没頭し、がむしゃらに取り組める体験のすべてが「学び」だと。数学や英語、料理、ダンス……、対象はなんであれ、その人が心から没頭できていれば、それを「学び」ととらえられています。
未知の領域に足を踏み入れ、新しい体験や考え方を味わうことのすべてが学び。だから、場所は学校や企業に限定されないし、正解も必要ありません。「学び」は常に能動的で、すべては、「自分で切り拓いていく」営みなんだと言われます。
没頭している人は、一日中それについて思考をめぐらし、新機軸を思いつきます。失敗を恐れずに試行錯誤を重ね、努力や苦労の過程も含めて全容を楽しむことができます。
学びは、没頭のなかにこそある。誰かに言われてする「お勉強」のなかには学びの本質は存在しません。
それを読んでね、 星山海琳 さんが、12年間の勉強( ⇒ 12年間の勉強が2ヵ月半?〜小中高には行かないで大学に行った娘の話.高認篇 )をしていたときにみせた、彼女の美しさをおもいだしたんです。
最高におもしろい遊びだったんでしょうね。
あ、わたしが使う「遊び」という言葉は、堀江さんの言う「没頭」と似ているものです。
わたしもまた、遊びは重要な学びである、とおもっています。
その遊びには、勉強も、あそび(←「遊び」と「あそび」をわかりやすくするため、多数の人がとらえている遊びのほうを今だけ ひらがなにしておきます)も含まれます。
学校で習う教科の勉強と、ゲームはどちらも等しく遊びであり、重要な学びである、という考えをもっています。
自分の興味に基づいた、自分にとって好きな遊びの活動は、誰かが、何かが、邪魔をしなければ、創造する能力を開花させる真剣な学びです。
遊びによって育つもの。創造力、集中力、思考力、洞察力、行動力、実践力、能動力、忍耐力、体力、技能、個性、自主性、主体性、協調性、自省心、愛他心、etc。いずれも 豊かな知恵を生む貴重な財産 です。
そう。誰かが、何かが、邪魔をしなければ!
同じことを堀江さんも言われています。
学校という集団教育の場は、没頭を否定し、天才を否定し、オールBの常識を植え付けていく洗脳機関なのである。
では具体的に、学校はどんな手段を使ってその洗脳を行い、すべての子どもをただの凡才に仕立てあげようとするのか。
「禁止」である。(略)
あれをしてはダメ、これをしてはダメ、と禁止のルールを増やしていくことは、非情にコストの安い教育手法だ。教師たちは難しいことを考えず、ただ禁止の柵からはみ出した者を叩いておけばいい。
禁止のルールを十分に身につけた子どもたちは、晴れて常識人として、そして凡庸なジェネラリストとして社会に出ていくことになる。そして彼らは、大人になってからも自分で自分にブレーキをかけ続けてしまうのだ。