こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
学校にある「普通」。この普通がどんどん狭められて、ちょっとの違いも許されなくなっている。
能力、評価、認定…。多様な子どものいる学校はもうありません。
飴と鞭
学校にある「普通」がどんどん、どんどん、やせ細っていく。
どういうことかと言うと、学校にはアメとムチが用意されています。
アメは骨(反骨精神)を溶かすために。そうすることで金で動く人間に育っていきます。
ムチは恐怖を与えるためです。上の者に従うコマが大量に必要だから。
勉強すれば報償を与え、しなければ処罰します。
子どもの振り分け
アメで釣られ、ムチで打たれしながらも、それでも昔(わたしが子どものころ)はクラスに全員いました。脳に障害がある子も、わたし自身を含む身体に障害がある子も、みんな。
けれども経済効率優先の教育政策の中で分離教育の扉が開き(養護学校義務化)、障害児は地域の普通学校から排除されました。「障害がある・ない」、「できる・できない」などを理由に。
生命にたいする畏敬が欠けていったのです。
「生命にたいする畏敬を欠けば教育は成立しない」と 林 竹二 さんは言われます。それは教育ではなく調教だと。
ほんとうはこちらのほうが社会的
調教は激しさを増し、1995年に全中学校にスクールカウンセラーが配置されるや精神医療にかかる子どもの数がたいへん多く増えました。
以降、違和感を覚えた子どもたちも いっきに学校を離れていきます。
いま。。。
アメに魅力を感じない欲望のない子どもたちは、「高学歴や高収入なんて興味ないし、家に引きこもってゲームでもしてよっかな」のノリです。
学校に行かない選択 の彼のように、学校に通う時間があったら、自分の学びに没頭したり、株の勉強をしたり、就職する(雇われる)道は考えず、自らで稼ぐ方法に頭を使うタイプの子もいます。
利益誘導のアメとムチは、彼らのような社会的な子(ひきこもりや不登校の子どもは「反社会的」なわけではない)を、学校から立ち去るようむしろ推進してきたことになります。
子どもたちを正直でいられるようにすることが、教育の始まり
学校に行く・行かないを選択した子たちは学校から出ていきました。
多様な子どもがいる学校はもうない。
今日もだれかひとり、「なぜ学校に通うのか?」という問いを突き詰めてみるのだろう。企業がぷくぷく、ぷくぷく肥っていくにつれ、痩せ細る「普通」のなかで。
学校にいるほうが、個々人がバラバラにされていく現実が進行しているとおもえてなりません。
子どもたちを正直でいられるようにすることが、教育の始まりではないでしょうか?
わたしたちは、もっともっと、「教育」ということについて語り合わなくてはダメだとおもうのです。