こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
物語は、
ここから始まるのだ。(手塚 治虫)
「母の日」
まりん さんは言います。
母の日は、
たとえば、こどもが3歳のときなら、お母さんに「ママの似顔絵」をあげたり、
10歳のときだったら、お母さんにカーネーションをあげたり、
30歳のときには、お母さんにバッグをあげたり、
50歳だったら、お母さんを温泉旅行に連れていってあげたり、、、
電話をかけるとか、
LINEをおくるとか、
心のなかで「ああ今日は母の日かあ」と想ったりとか。
こどもから見ると、
自分が物心ついたときから、「母の日」はずっとあるやん。
自分が30歳になっても、
40歳、、50歳、、、になっても、
母に、感謝をあらわすなにかお祝いをしたり、想ったりする「母の日」はあるやん。
つまり、「母の日」に期限はないやん。(「父の日」もいっしょ)
で、
「母」になった自分から見ると、
似顔絵を贈ってもらえたり、
お花を贈ってもらえたり、
「おめでとう」と言葉を贈ってもらえたり、、、
幾つになっても、「母の日」はある。
婆さんになっても。「母の日」に期限はなく、「母」になったら永久存在。
こどもの日
ところがです。
「こどもの日」は、まるで冷めたカップルのように自然消滅していく。
「母」になった母は(父も)、初めてむかえる「こどもの日」を祝う。
翌年も祝う。
その翌年も、さらに翌年の翌年も、、
さらに、さらに、翌年の翌年も祝うだろう。
幾つになっても、こどもはこども。
「こどもの日」にも期限はないはず。
でも、17歳になったこどもを、
24歳になったこどもを、、
30歳、40歳、、50歳、、、になったこどもを「こどもの日」に祝うことはない。
(こいのぼりを出して、五月人形を飾って… という意味じゃなくてね)。
「こどもの日」に感謝することもなければ、
ふっとね、想うことさえないんだろう。
境界線を引くことの愚かさ
まりんさんとね、長い時間、しゃべってたんだ。
こどもってなんなんだろう?
流れてくる「母の日」。
ひとり町に取り残された「こどもの日」。
おとなが忘れているもの。
いわれない差別のなか、
こどもたちの本質は変わらない。
アメリカ人から見れば、大人になっても漫画を読む日本人は、滑稽に感じるらしい。
ではなぜアメリカ人の大人は漫画を読まないのか。
それはアメリカに手塚治虫がいなかったからだ。
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今日の本
手塚治虫がねがったこと/斎藤次郎
手塚治虫の40年の仕事をふりかえり、漫画という自由な場を通じて彼が投げかけつづけたことをたしかめる。科学技術と人間、戦争と平和、善と悪…。それらはもちろん今も問題でありつづけ、これからを生きる子どもたちの前に横たわる。「ジャングル大帝」「鉄腕アトム」から「アドルフに告ぐ」にいたるまで、手塚漫画と共に育った著者の、生き生きとした一冊。