「不登校」の数ならどんどん増やしてしまおう

こんにちは、AI-amのよっぴーまりんです。

「学歴や成績で人の価値は決まらない」「数値で人の能力を測るべきじゃない」「画一的な教育システムはおかしい」と思っている人たちは、たくさんいます。
けれども「結局は」、社会で通用しソツなく稼いで生きていくために、くだらない気がしているシステムに乗っかることにする。

教えられたことをきちんと答えられるかどうかを示す点数、それに基づく評定・評価、順位付けによるほかの子どもたちとの比較、そんなものが、「結局は」必要らしいのです。

「知る」を目的にするのではなく、その先へ展開していき、根本に突っ込んでみる。「不登校をしている子どもの数をどんどん増やす」は、ひとつの手段になり得ると思います。

「銃なんて持たなくてもまあまあ平和に暮らしているのに」

アメリカは銃社会ですと聞くと、日本でしか暮らしたことのないわたしたちは、そんなものなくてもまあまあ平和に暮らせているのに、と安直に思う。

アメリカでは、銃規制の強化を望む人も多い。所持率は州によってかなり差があって、半数以上が所持する州もあれば、10%を下回る州もあって、ほとんどは攻撃のためではなく自衛のために銃を持っているという。
武器の所持は権利だと考える人もいれば、銃社会を望んでいるわけではなくても「結局は」銃が必要だ、という考えもあるように思う。

 

日本で暮らしていて「学歴や成績で人の価値は決まらない」「数値で人の能力を測るべきじゃない」「画一的な教育システムはおかしい」と思っている人たちは、たくさんいる。

いるけれども、その中でもたいていの人たちは「結局は」就職のため、世間体のため、仕事のため、ようするに障害なく稼いでいくために必要だよな、と考えて、それに倣う。

ひとたび就職すれば一生安泰なんて時代ではないとみんな知っているけれども、だからといって投げやりになるわけにはいかずに、「とりあえずもうちょっと考える」わけにもいかずに、もともと具体的に就職先を決めている人以外も、「結局は」そこそこの会社へ入ろうする。そのためには、やっぱり学歴が必要だよな、ということになる。

自衛のための「人並み」な教育を

大卒であるだけで評価を得た時代を経て、今はどこの大学を出たか、どこの大学の何部を出たのかによって、いやそれだったら大したことないですね、そら大したもんですね、申し訳ないけど論外ですわ、と価値を測る。

裏口入学でもない限り、学歴によって測れる能力があるのは当然なのだけど、学歴で測れる能力とその人全体への認識を区別する人は、意外と多くない。
「頭いいけどバカ」「頭悪いけどいいヤツ」とは言えても、どうしても学歴や成績を結びつけたがる。それにはどんな意味があるんだろう?

仕事への大まかな相性や適正、知識量などの裏付けに学歴が用いられるならともかく、小・中学校で教えられたことをきちんと答えられるかどうかを示す点数、それに基づく評定・評価、順位付けによるほかの子どもたちとの比較、そんなものが、「結局は」必要らしい。

 

定期テストや内申、全国学力テストなんてくだらないよな、と思ってはいても、学歴社会・成績社会・学校社会ならば、わたしは基準にしなくてもわたし以外の人たちがそれを基準にするというなら、やっぱり「自衛」するしかない、と考える人たちは少なくないはず(フィンランドのような教育システムを導入している国に住んでいる人は、「そんなものなくても問題なくやっていけるのに」と思う、こともあるのかもしれない)。

子どもはみんな等しくそれぞれに価値がある、学校の成績だけじゃない、数値では測れないものがたくさんある、でも「結局は」それではやっていけないので、社会で通用しソツなく稼いで生きていけるために、「人並み」の教育を就学前から子どもに施していく。

「知ること」は必要、でもそれが目的になると展開は難しい

大阪市淀川区にある市立木川南小学校の久保敬校長による、大阪市長に対する提言が話題になったのは5月半ばのこと。

その久保校長を中心に、今の大阪の教育を考えようというオンラインイベント『今のままで大丈夫?大阪の学校 〜 保護者さん、先生たち、みんな集まろ!〜』が先日、6月13日に開催されました。

[box class=”green_box” title=”大阪市立木川南小学校・久保校長の「提言」” type=”simple”]久保校長による提言の全文はこちらに掲載されています
 https://www.asahi.com/articles/ASP5N6KWMP5NPTIL00R.html

[/box]

 

登壇者は市立木川南小学校・校長の久保敬さん一般社団法人ジェイス代表理事・臨床心理士の武田信子さん哲学者・教育学者の苫野一徳さん教育研究者の濱元伸彦さん

モデレーターの武田緑さんが呼びかけ人である、学校現場の声を見える化する「School Voice Project」主催のイベントでした。

 

今回のイベントは「現場の状況や、教育の専門性を踏まえた知見を共有する」ことを目的とされていました(イベント詳細ページより)

内容はわかりやすいものでしたが、このイベントに限らずわたしたちは、公的な物事に関する「知見」には両極(とまではいかなくても)の意見を一度に得られたらいいのに、といつも思います。
そうすることで両極がより理解しやすくなるし、その両極を含んだひとつの枠組み、その問題というのも見えてくるから。

 

そして、こうしたイベントが頻繁に開催されるようになったのは嬉しいこととして、「知ること」を目的とするあまり、そこから先へ展開するのが難しくなっていることを実感します。

「知ること」は不可欠なんだけど、じゃああとは各々で考えていきましょう、で問題が解決されていくわけはない。みんな忙しいし、「結局は」仕事があるし、洗濯物も溜まっているし。
「知ること」は本来変化へ向かうための一歩なのに、どこかストッパーのような響きをもって、「知ること」から先へ行くことをためらってしまう。

公教育が自分には合わない「不登校」、たったそれだけのこと

2021年度より三重県は、県立高校におけるツーブロック禁止、地毛証明、アンダーシャツや下着の色の指定、男女交際に関する規定など、「時代にそぐわない『過去の遺物』のような校則」を見直し、禁止したというニュースがありました(禁止されたにもかかわらず「指導」が続いている現場がある、という続報もあります)。

「今さら」「ようやく」と言われるようなことでも、変化がはっきりと目に見えることは、力になる。

 

公教育、一条校が自分には合わない、たったそれだけのことが「不登校」として問題になるのも、その数が児童生徒の半数くらいになってやっと「今さら」になっていくかもしれない。

「良い」とされる会社に就職して、そこに「私は学校行ってないですよ」という(言われなければわからない)同僚が複数人いて、そんな時代の人たちが親になってはじめて、「学校に行きたくない」と言った子どもに、不安を含まない本心から「そうなんだー」と言えるんじゃないか、という気がします。

「不登校」をしている子どもの数をどんどん増やす

「知る」のあとの展開はさまざまですが、その一つとして「不登校をしている子どもの数をどんどん増やす」は、たぶんかなり効果がある。

やみくもに増やすのではもちろんなくて、学校が好きな人・必要な人・都合のいい人などはそのままでいいし、「行けない」子どもたちには学校による適応が必要です。
ただ、そもそも「不登校」に関する現在の統計が正しいはずがなくて、ホントは今も、もっとたくさんの子どもたちが「不登校」に当てはまるんです。

 

30日以上登校していない児童生徒を「不登校」とカウントする=30日以内に1度でも登校すればカウントしないというルールのせいで、「放課後だけでもいいから来てみて」「体育だけ」「週に1回だけ」「校門にタッチするだけ」などと求められたり、親は「出席日数にカウントされるフリースクール」を探してみたり、教育支援センターに行ってみようと誘ったりする。それで、子どもは?

アクティブ・ラーニング、インクルーシブ教育、思考コードにブルーム・タキソノミー、プログラミング教育……などなど新しい方針や基準を並べ立てるけれども、血の通った改革ではなくなんとなく乗っかっているだけの要請に子どもたちも教員も振り回されて、くだらないすり抜けで「不登校」の数を抑えて、公教育がよくなっていくわけがない。

 

表面を取り繕ったところで、もはや根本を解体するところから始めるしかないのだから、「不登校」をごまかさないとか、「不登校」ではなくてもボイコット的な方法を取るとか、(社会にも、自分にも)なにか突きつけるような行為に臆することをやめる頃合いなのかなあ、と思います。のんびり、適当にやっていくためにも。

 

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