「不登校」を3つに分けて考える

こんにちは、AI-am(アイアム)のよっぴーまりんです。

文部科学省は、「不登校」を「何らかの心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しない、 あるいはしたくともできない状況にあるため年間30日以上欠席した者のうち、 病気や経済的な理由による者を除いたもの」と定義しています。

「不登校」は一般にネガティブなイメージを持ちますが、「不登校」をひとくくりにせず、丁重に捉えていけたら、子も親も苦しめられずにすむと思うのです。

学校に行けない・行かない・行きたくない子どもたちには個々の環境があって、理由があって、求めるものがある。それらを踏みにじらないためにも、ひとまずは「不登校」を3つに分けて考えてみます。

「不登校」の意味はひとつじゃない

「不登校」という言葉は、一般的にネガティブな意味を持っています。

それは、「不登校」を1つの意味でしか捉えてないから。学校関係者の意見や、ニュースなどを読んでいても、「不登校」の切り口は限られています。

「不登校」は、ネガティブでもポジティブでもありません。学校に行けない・行かない・行きたくない子どもたちには個々の環境があって、理由があって、求めるものがある。
それらを踏みにじらないためにも、ひとまずは「不登校」を3つに分けて考えてみます

 

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  1. 「学校に行きたいけれど、学校に行けない」不登校
  2. 「学校に行きたくないから行かない・行っていない」不登校
  3. 「本当は学校に行きたいのか行きたくないのかが自分でわかる以前に、行かないといけないと思っているから”行けない”」不登校

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今回分けたこの3つのうち、どれかは「しかたない」でどれかは「甘え」、なんてことはもちろんありません。それぞれの立場は違うし、それぞれの「不登校」がもつ問題・障害もそれぞれ異なっています

「不登校」をひとくくりにせず、丁重に捉えていけたら、子も親も苦しめられずにすむと思うのです。一方が他方を追いやるようなこともありません。

 

オルタナティブスクールも含め、教育の場は、無力感や諦め、「仕方なさ」、できることとできないことで差別することを教える場所であるべきではないとわたしたちは思います。

子どもたちが学ぶ喜びに満ち続けられるように、知的好奇心を奪わず、(広義の)勉強・学びと一生涯をともにし続けられるようにあるべきで、それがたとえ理想論であっても、教育の場が理想に近づいていく努力もしないなら、子どもにあわせる顔がないと思うんです。

①「学校に行きたいけれど、学校に行けない」不登校

いま「不登校」の解釈として主流なのは「学校に行きたいけれど、なんらかの問題があって、学校に行けない」ではないかと思います。

教育機会確保法も、おおむねこの解釈にあたる子どもたちを想定しています(もちろん、この解釈に当てはまらない子どもたちもどんどん活用するのがいいと思います。ほっておくとちっとも広がらない幅は、こちらから広げていくしかないから)。

 

学校に「行けない」理由はさまざまです。

勉強についていけない/友だちがいない/先生が苦手/給食を無理やり食べさせられる/朝起きられない/教室に入れない、入りづらい/教室が重苦しい/読み書きが苦手/勉強が楽しくない/いじめにあっている/友だちと話を合わせるのが疲れる/みんなの前で叱られたりする/体育やプール授業がいや/制服を着ていかなければいけないのがいや/先生が机や黒板を強く叩くなど暴力的なのがいや/集団行動がしんどい/一人になれない/一人になってしまう/クラス内の派閥がきつい/部活参加の強要/先輩の言うことが絶対だからきつい/じっとしているのがしんどいetc、etc……。

 

たとえばこうした理由が原因で「学校に行きたいけど行けない」場合、子どもたちが求めるのは「その問題が解消・改善される」ことのはずですよね。

問題は「行けない子ども」ではなく、「子どもに適応しない学校」にあるということ。

 

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学校に行きたい子どもが学校に行けることを「学校」が目指すべき

この「不登校」の状況にいる子どもたちに対して、「休んでもいいよ」「人には充電期間が必要」「行かなくてもいいんだよ」と言うのは、子どもを無用に押しこめることかもしれません。

子どもには劣等感やネガティブなイメージを与えてしまうし、時には教育を受ける権利さえ奪うことになりうるかもしれない(後述するのような子どもが「休める」「行かないことができる」といった選択の余裕さえ持っていないなら、そこには大人の仕事が必要だけれど)。

 

子どもの学校生活につっかえている問題は、子どもが苦しんだり無理をしたり我慢をすることで解消・改善されるべきではなくて、学校に行きたい子どもが学校に行ける・いられることを、「学校が」目指すべきだとわたしたちは考えています。

 

たとえば、西郷孝彦さんが以前、校長として勤められていた世田谷区立桜丘中学校では、こんな自由があるといいます。

① 校則がない。
② 授業開始と終了のチャイムがない。
③ 中間や期末などの定期テストがない。
④ 宿題がない。
⑤ 服装・髪型の自由。
⑥ スマホ・タブレットの持ち込み自由。
⑦ 登校時間の自由。
⑧ 授業中に廊下で学習する自由。
⑨ 授業中に寝る自由。
⑩ 授業を「つまらない」と批判する自由。

 

引用:『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール: 定期テストも制服も、いじめも不登校もない!笑顔あふれる学び舎はこうしてつくられた』p.38

 

こうした、多くの中学校にあるはずのものの廃止は、生徒総会にて子どもたちから提案されたものでした。

生徒から意見が出ることはほとんどなく、仮に出たとしても、結局、実施できるかどうかは、教員の判断になってしまう。これでは、生徒も「意見を出してみよう」ということにはなりません。
私はこういう形式的な生徒総会が大嫌いです。
そこで私は、生徒たちに向かって約束しました。
「生徒総会で決まったことは、必ず実現させます」
生徒が総会で決めた「より楽しい学校生活の実現のためのアイデア」は、危険や触法性がない限り、実現に向けて教職員とともに努力することを誓ったのでした。
実際、現在の服装の自由化は、2013年に生徒総会で決まった「カジュアル・スタイル・デー」がベースになっています。本当に実現するんだとわかったことで、生徒総会は活発になりました。

 

引用:『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール: 定期テストも制服も、いじめも不登校もない!笑顔あふれる学び舎はこうしてつくられた』p.109

 

>>> 関連記事
・桜丘中学校・西郷孝彦校長の著書『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール』に学ぶ子どもからはじまる教育
・西郷孝彦さんは休校中「宿題するのはムダ、自分の好きなことすればいい」と言う『子どもは天才!トークライブ特別版』レポート

 

もちろん、現状では学校側が柔軟にやろうとしても実現できないことは多々あるけれど、少なくとも、はじめから子どものせいにして子どもに丸投げするのはあまりにもひどい(学校「に」適応させようとすることも含めて)。

 

家庭でも、たとえば子どもが「制服がいやで行きたくない」と言っているとき、親は「子どもが制服をいやだと言っている」ことを「問題」にしがちです。

「くだらないこと言ってないで行きなさい」「そういうものだからしょうがないでしょ」など、子どもに対して「あなたが間違っている」というメッセージを送る
ここで「じゃあ私服で行けばいいよ」と言うのももちろん子どもを軽視することに変わりありません。

 

学校は子どもにとって安心安全な場でないといけないし、そのためには保護者も知識を得て、自分たちの声で現状を変えていく意思をもたないといけない。
学校は子どもたちのためにあることを、メディアだってきちんと取り上げて伝えていかないといけない。

学校なのだからしょうがない、と思っていることのほとんどは、意外としょうがなくなかったりするものです。

保護者がひとりで声をあげていくのはむずかしくても、子どもに「あなたが間違っている」と言わないことはできる。
おかしいのは子どもではなく、明治から続く現在の学校教育にあるんだと認識することはできます。

 

[box class=”yellow_box” title=”支援団体など”]

そのほか、各地域の親の会で情報や知恵を共有することも方法のひとつですし、「登校拒否・不登校問題 全国連絡会」など全国規模のネットワークでの交流も助けになるかもしれません。

多様な生き方を求める「登校拒否・不登校を考える全国ネットワーク」では、支援制度も用意されています。

  • 「登校拒否・不登校を考える全国ネットワーク」…「不登校オンブズマン制度」
    不登校の専門家や弁護士、カウンセラー、ソーシャルワーカー、精神保健福祉士など各種専門家と連携し、子どもの権利条約及び教育機会確保法の理念に基づいた解決、子どもの権利の擁護に努める制度。無料のヒアリングを行っています。
    https://futoko-net.org/activity/futoko-ombudsman/

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②「学校に行きたくないから行かない・行っていない」

ふたつめの「学校に行きたくないから行かない・行っていない」も、たいていは、まず学校に対してなんらかの不満や疑問を抱くところからはじまります(親の意向・家庭環境などではじめから一条校以外の学校に通っているケースはここでは含めませんが、そんな例もあります)。

と異なるのは、「(それでも)学校に行きたい」のではなく、「だから学校には行きたくない、行かない」と思い、その選択に至っているところ。

 

デモクラティックスクール・サドベリースクールをはじめ、オルタナティブスクールに通う子どもたちのなかにも、こういった考えを持っている人は多いです。

一条校、仮に一条校として成り立つ最低限の縛りしかない学校だったとしても、その教育理念・方針が合わない子どもたちや、一条校に対してどうこうというよりとにかく通いたいオルタナティブスクールがある好きな学校がある子どもたちなどが、全国あちこちにいます。

それはなんらかの問題、疑問をきっかけとして、より自分に合った教育、自分にとって快い場を見つけた・出会ったということ。
一条校以外の学校に通っているという意味では「不登校」には当てはまらないという見方もあるのですが、籍のある一条校からすれば、まあ「不登校」に当てはまります。

 

もちろん、全員がそうでない点は留意しておきたいところです。

学校側の変化が望めない、あるいは丸投げされたために、学校に行かない選択をせざるをえなかった子どもたちもいて、その子どもたちは本来、に当てはまるはずなんですよね。
そんな子どもたちをこのに当てはめることは、やはり子どもの声を折り畳んでしまうことかもしれない、と慎重になっていたいです。

また、その判断に明確な基準はありません。人は変わるものでもあるし、学校に限らず、「結局どうだった」なんて本人でさえ正確にわかることはないものですよね。

ただ少なくとも、「学校に行きたくないから行かない」「好きな学校があるからそこに通う」という子どもの宣言をすんなり受け入れる親のもとで、子どもが学校に行かない選択をせざるを得ない=本当は一条校に行きたいことを心の内に秘めたままオルタナティブスクールを選ぶことはほとんどありえない、とは思います。そこに親の価値観が反映されすぎていないかどうかについては、やっぱり注意が必要ですが。

 

学校に行かない子どもたちの学習環境と、オルタナティブスクールの学費問題

一条校に行かないことと、科目勉強をしないことはセットではありません。もちろん、一条校に行かず科目勉強をしない子どももいます。科目勉強をしたくない/しない場合があるように、したい/する場合もある。それは一条校に行かないこととは分けて捉えるべきです。

そういう子どもたちへの学習環境の整備は必要で、利用するかしないかは子どもたちに任せるとして、けれど利用できるものでなければと思います。図書館が開かれているように、公園が開かれているように。

それから、オルタナティブスクールに通う場合、親には経済的な問題が降りかかります。
学費、交通費、とにかくいろいろ高くつくし、通学用定期券の購入、公共施設の利用、いちいち大変なこと・認められていないことも多い。

また、子どもの安心安全な場が維持されていくには学校の運営面の安定も必要ですが、そんな状況なので多くのオルタナティブスクール自体、資金繰りに苦労しています。
それらを「子どもが一条校に通わないんだからしょうがない、そういう学校を選んだそっちの責任でしょう」という話で片付けるのではなく、経済的な事情によらない選択を可能にしていきたいです。

 

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③「行かないといけないと思っているから”行けない”」不登校

これは3つめというより、にもにも満たない状況なんですが、実はこの状況にいる子どもが一番多いんじゃないかという気がします。

同じ「行けない」でも、この状況の苦しさはとは種類が違っています。

のように、学校には行きたいけれどそこになんらかの問題や不満がある子ども、またはのようにそもそも学校が合わないという子ども、どちらも「行きたい」「行きたくない」の肝心なところがはっきりしているんですよね。

 

問題が解消されたとして学校に行きたいか行きたくないかという部分を本当に「はっきり」するのは難しいことだけど、なにをどう選んだところで選ばなかったものの影はつきまとうし、別に「完全不登校」なんて決める必要はないのだから、その時々にすっきりする選択をしていけたらいいとわたしは思っています。

ただ、「行かないといけないと思っている」というのは、学校への登校が子どもに義務づけられているものではないと教えられていないから知らなくて、という以外に、なにより親の圧力が影響しています

 

子どもは、親の機嫌がよくなる方法をとるものです。それは子どもにとっては親が権力者だからで、大切な存在だからでもある。

たとえば(行けないにせよ、行かないにせよ)不登校をしていて、家庭訪問がいやでたまらない子どもが、先生に会えば親は機嫌がよくなるから、家の中で自分の居場所を確保するために家庭訪問を受け入れます。

たとえば「行かないといけないと思っているけど行けない」子どもたちの多くが、親を悲しませたくない・嫌われたくない、そして自分の行為に罪悪感を抱いて、「明日は行くから」と言います。

 

そもそも学校に「行けない」ことに罪悪感・劣等感を抱いていて、「行かないといけないのに行けない」ために苦しんでいる子どもが、親の「学校に行くべき」というメッセージに晒され責められれば、子どもは何重にも苦しみを抱えてしまいます。

メッセージは直接的でなくても、いろんな形をとるものです。「ついていってあげようか」「今日は行けたね、すごいね」「そんな時もあるよね」etc…。

あるいは「そんなにつらいなら行かなくてもいいよ」と親が言ったとしても、親の心の内にひそむ欲求は子どもに伝わって、子どもは「月曜日は行く」「二学期からは行く」「送ってもらえたら行ける」などと言うしかない、という状況もままあります。
そうすれば親は安心して機嫌がよくなる、でもそう宣言したことで子どもはさらに追いつめられていく。

親に対する子どもの愛情や親切を、親はときどき利用してしまいます。知らず知らずのうちに。

 

子どもの安心安全な環境のために、親は手綱を手放さないといけない

このの状況にいる子どもが、どちらの「不登校」の立場をとるにせよ、どちらかの、あるいはまったく他の立場にも向かえるような、安心できる環境が必要です。わからない、つらい、なにもかも自分が悪い、そんな状況で(本人にとって)まともな判断なんてできるわけがありません。

いろいろ端折って極論を言ってしまえば、学校が、オルタナティブスクールが、学びが教育がどうのこうのという前に、子どもの過ごす環境が健康的で安全な安心できるものかどうかにかかっていると思うんです。

家庭以外ではその役割を担えないということは決してないけれども、家庭がそんな環境であるに越したことはありません。だから、直接的な権力であれ、巧妙な支配であれ、親はそれらの手綱を手放さないといけない

 

個人の価値観からではなく「本当に」学校に行かなければいけない、と思い込んでいる大人も少なくないですよね。
いまそれを知らない子どもたちが多いように、ほとんどの大人たちもかつて教えられてこなかったから、あらためて知る機会は少ない。

それは各個人のせいではないけれど、子どもたち、親、親ではない大人もみんな、「しかたない」以外の答えを見つけていく余地を持たなきゃな、と思います。

 

「不登校」を問題にしているものは一体なんだろう?

そんなこと言ったってこういう問題があるし、あっちも手つかずでどうしようもないし、というのは確かなんですが、でもそんなことを言っている場合でもありません。

人が作ってきたシステムをいまさら変えられないからこれからも人はそのシステムに適応していくしかない、というのは変な話です。わたしたち自身そうであるように、誰もが変わり続けることで生きていくものなのに。

目指したことが100%実現するわけではありませんが、100を想定してやっと30くらいは叶うもので、30を想定してもほとんど何も変わらないし、目指さないことには近づきません。

 

食べものの好き嫌いがあるように、個々人がネガやポジに振れるのはいい。でも「不登校」そのものを社会が、大人がネガポジで捉えてしまうと、子どもはフラットに感じること、そこから選んでいくことができません

公教育がよりよく改善されていくことと並行して、「登校」に当てはまる対象の幅が広がっていけばと思います。そもそもなぜ「不登校」が問題視されるのか、「不登校」を問題にしているものはなんなのか? わたしたちはつねに明確にしておく必要があります。

いずれにせよ大人の想定ではなく、子ども個人を見て、聞いて、それから子どもの外に意識を向けていくことが大切ですね。

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