こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山海琳 です。
子どもと大人はもちろん、人と人は、まなざしや態度だけじゃなく言葉を交わして成長していきます。
だからわたしたちは発する言葉のひとつでも多くを、生きたものにしたほうがいい。生きたもの、つまり実感をともなった言葉を。
実感のはたらく言葉
庭を耕して野菜の種子を植え、ハーブや果物の苗を植えかえると、日ごとに成長していく。成ったばかりの苺がだんだんと熟して、赤く染まっていく。ミントがわさわさと増えていく。
文字の上に生きられるものはないから、言葉を生かすのは人だということになる。生かすことができるなら、生かさないことだってできる。
人と人は、まなざしや態度だけじゃなく言葉を交わして成長していくから、わたしたちは発する言葉のひとつでも多くを、生きたものにしたほうがいい。
生かすといっても、物理的に水をやることはできないし、食べ物を求めてもこない、やすりで研磨もできない。言葉を生かしたり生かさなかったりするのは、用いる人にとってその言葉に実感があるかどうかなのだと思う。
言葉が大事だよねと言えば多くの人が納得する。でもその「大事」に、息づくものがあるかというと、あまりない。
実感がなくても納得できるのは重要なことで、知識や理性、想像力を活用できてこそ。それでも実感のない言葉の応酬は、そうそう人を育てられない。
果実の青さ、何種類もの痛み
熟していない果実を「青い」という。青い果実、それはまだ青いからおいしくない、という。それは知っている。でも成ったばかりの青い苺が、見るたびに赤く染まって「いく」のを観察してはじめて、果実の「青さ」に実感をもつことができる。わさわさと増えていくミントを見てはじめて、「繁殖」は自分の言葉になる。
同じ言葉を使っているのに誰が使っているかで全然印象が違うな、ってことがあるじゃないですか。あれはどれだけその人がその言葉に実感を持っているか、知っている言葉ではなくてわかっている言葉か、というところなんでしょうね。子どもの言葉が大人にとって新鮮に、なんだか核心的に聞こえるのも、たぶん同じことで。
わたしたちはよくオノマトペで痛みを表すけれど、あんなの「わかっている」ものでなければ意味不明ですもんね。「あ、キリキリか、わかる」「スースーする感じね、わかるわかる」。実感に基づいているから、「わかる」。
「だめ」や「いい」といった端的な言葉にだって、実感と、その根拠の灯りを見ることができるものです。
着心地のいい服や手になじむ箸のように実感のある言葉を使う心地よさと、しみる音楽やまじめな料理のようにそれを他人から受け取る充足感に、きっと誰でも覚えがある。「そうじゃない」ものに対する「スースーする感じ」も。
子どもは多くのことを自ら発見して、学んで、身につけていくけれど、だからこそ子どもが聞き流す、ときに耳を傾ける他人の言葉のひとつでも多くが、実感にあふれていてほしいと思う。