「ほんとう」はシンプルで複雑【レポート】「《いま、あらためて「学校」の役割を考える》これからの教育実践ゼミ」

こんにちは、
AI-am(アイアム)のよっぴー、まりんです。

2022年3月21日(月)に開催された「《いま、あらためて「学校」の役割を考える》これからの教育実践ゼミ」のレポートです。

ご覧くださったみなさま、ありがとうございました!

「これからの教育実践ゼミ」について

「これからの教育実践ゼミ」は、武術研究者・甲野善紀さんをホストに多彩なゲストを迎え、これからの教育について考察されている企画。

これまでにも、合気道家の溝脇元志さん、神戸親和女子大学発達教育学部ジュニアスポーツ教育学科教授の平尾剛さん、簡松堂院長の松木宣嘉さん、『刃物たるべく 職人の昭和』などの著者・土田刃物店三代目店主の土田昇さん、医師の稲葉俊郎さん、物理学者の小林晋平さん、コミュニティオーガナイザーの福岡要さん、『現代坐禅講義 只管打坐への道』などの著者・曹洞宗僧侶の藤田一照さん、小池統合医療クリニック院長の小池弘人さん、私塾松葉舎主宰の江本伸悟さん、浜島治療院院長の浜島貫さん、舞踏家の西園美彌さん、多摩美術大学芸術学科修士課程の長本かな海さん、『超人化メソッド 修験道: 山伏伝承 身心向上術』『ホネナビ 1日3分で医者いらずの体になる』の著者・長谷川智さん……などなどとの対談が行われてきました。

この日は、わたしたち、よっぴーまりんがゲストとして出演し、甲野善紀さんとお話をさせていただいたのでした。

「ほんとう」ってなんてシンプルで複雑

前日に甲野さんへお送りしたメールを前置きに、初対面という独特の緊張感をもってはじまったこの日の鼎談は、甲野さんのおかげで血の通った、芯のあるものになりました。

現在の学校教育のゆがみ、他者が与える「基礎」や「効率」のうさんくささ、人が自ら学び身につけていくこと、そのプロセス。「教える」ことと「学ぶ」ことの差異、教科書というもののいやらしさ……。

星山海琳が高認に合格した2ヶ月半の勉強を、「経験からすでに身体が知っていることの別の表現を知っただけなんだろう」というように見抜かれたのは、甲野さんがはじめてだったように思います(甲野さんがまりんのことをお話してくださった対談本はこちら)。


レイチェル・カーソン『沈黙の春』や、森田真生『数学する身体』、特別支援学校の元教員で現作家の山元加津子さんのお話などなど、《いま、あらためて「学校」の役割を考える》というテーマをもとにさまざまな分野、種類のお話がありましたが、どれも根底でつながっているものなんですよね。

武術と親子関係のように、一見無関係なものが実は重なっているんだ!という発見やそれを見出す感覚って、とってもたいせつなもの。

お知らせの際にも書いたように、わたしたちは甲野さんのお話をいちばん近くでたくさん聞かせていただいていたようなものなんだけど(笑)、甲野さんが鼎談中にもおっしゃっていたように、実際の言葉の数よりもはるかに多くの会話をしました。見てくださっていた方にも伝わったかな?

甲野さんとはじめてお会いした瞬間から、自分がまだまだ背負っている(意識して背負っていたわけではなかった)ものを発見し、全身で生きるってどういうことか? を、わたしたちも痛烈に感じていました。
今回のお話の本質もそうだけれど、「ほんとう」ってなんてシンプルで複雑なんだろう、と思います。


ご覧くださっている方々からのご質問もいただきながら、あっというまの2時間に!(この記事の最後で、当日のご返答にすこし加える形で所感を書いています)

終了後には、とくべつに甲野さんの技を体感させていただいた!!↓↓

ひょいっと投げられるまりん
甲野さんの技が不思議すぎて笑うしかないまりん
真剣(マジ)なよっぴー
気がついたら目の前に拳があった! 思考停止でビックリよっぴー

甲野さんのTwitterより

甲野さんも、ご自身のTwitterにてご感想を綴ってくださっていました。

昨日のNOTH主催の「これからの教育実践ゼミ」は、ゲストに星山海淋(ほしやままりん)さんと、そのお母様である吉田晃子(よしだあきこ)さんをお迎えして鼎談を行なった。共感することがあまりにも多かったが、海淋さんの圧倒的才能は存在感に強烈に現れていた。

ただこれは、私がそう感じたので普通に見れば、にこやかで穏やかそうな若い女性にしか感じられない人が少なくなかったかもしれない。

そして、この海淋さんの才能を開花させるための、海淋さんへのお母様の接し方の尋常のなさ(もちろん、ただお会いしただけでは「ああ、天然系の人だな」としか感じられないと思うが)に感じ入った。

多分、昨日は印象が強烈過ぎて、すぐには感想が文字にならなかったのだと思う。それで、一晩寝かせてあらためて今日になって思い返してみると、例えば、大浴場で母子で泳いでいて、他の人から叱られ、母子で謝ったというエピソード一つにしても、「親として子を躾なければならない」という枠から外れた凄みを感じる。

お話を伺っていて、私が以前、北名古屋の平田寺で対談させていただいた「カコ姫さん」と私が呼ぶことにした山元加津子女史が養護学校の先生をされている時、この山元先生のあまりの天然ぶりに、養護学校の子ども達に「先生、僕たちがいるから大丈夫だよ」と言わしめたというエピソードを思い出した。

私が独自に武術の探究を始め、仕事として武術研究を成り立たせるための武術指導を始めて今年の秋で44年になるが、2003年に会を解散し、指導というより来た人とは共同研究をする立場にして、さらに各自が皆、自分の流儀の流祖になればいい。そしてそのためには基本も各人が自分で作るべきだ!という「松聲館スタイル」にいつしか移っていき、結果として、他の武道や格闘技で、それなりに名が通っている人と手を合わせて、その相手となった人達に驚かれるような技が使えるようになった人が複数出てくるようになった。

そうした武術の稽古法と「吉田晃子」「星山海淋」母子が実践されてきた、自分で自分を教育する方法は、重なるところが確かにあると思うが、生活全般を共に過ごす家庭の中で、それを実践する事の難しさは、武術の稽古としての「松聲館スタイル」の何倍も、いや普通の常識の中にいる人達にとっては何十倍も難しい事だろう。

しかし、これから先、環境問題をはじめ困難な課題が山積している人類にとって、現在のような常識に縛られた教育をしていては真に革命的な発明や改革など、とても無理である。

だが、無理とは言ってはいられないだろう。なにしろそういう現在の常識外の発明や改革をしなければ、数々の難題には対応出来ない事は明らかなのだから。そしてそうであるならば、本当に桁違いな才能を持つ人間を育てることは必須な大課題である。

そして、そのためには当然教育の在り方を根本的に見直すことをしなければならないだろう。そのことを今回の「これからの教育実践ゼミ」では、あらためて痛切に感じた。

https://twitter.com/shouseikan/status/1506133117446529024 ツイートのツリー全体より引用

質疑応答に加えて

当日、質疑応答タイムにいただいたご質問の一部に、時間の関係や流れ上、お答えできなかったことをすこし付け足しておきます。

☆ ご質問の内容は正確なものではなく、記憶にもとづく意訳です。ご了承ください。

学校に行っていない子どもが、ほとんどゲームとテレビとYoutubeだけをして過ごしています。親としてどうするべきでしょうか?

親としてすることは、学校に行っていても・学校に行っていなくても、宿題をしていても・宿題をしていなくても、学校に行かなくて勉強をしていても・していなくても、ゲームとテレビとYoutubeだけをしていても・していなくても、そういったこととは一切関係なく、その子と関わっていくことだと思います。

親は、いつもゴキゲンに過ごしていたらいい。

ゴキゲンのなかには、当然のように喜怒哀楽があります。
隣の奥さんに腹立ったわ、スーパーの帰りにこけて卵を割ってしまって悲しい、そんな暮らしにある感情はむしろあらわにしていく。
でも、あなた(こども)が学校に行っている・行っていないとか、勉強している・していないとか、そういうこととわたしのゴキゲンにはなにも関係がないっていうことを、全身で、頭の先から爪の先までそれを放出して、毎日をその子と暮らしていること。

仮に、ある日こどもが学校に行くって言い出したとします。
そのときに、喜びをあらわにしないこと。
明日学校に行くと言ったけれども、やはり朝になって行かなかったとする。そのときにガッカリをあらわにしないこと。
その訓練を日々しておくことです。

「親」という存在をこどもに背負わせないこと。それがなによりも大事です。
こどもは自分のことを十分に考えているから、安心して自分のことを考えられるように。

こどもに親を喜ばさせてはいけません。
笑いあって、おしゃべりしあって、そんな日常を過ごしていましょう。

不登校3年目になる子どもが、最近「勉強したほうがいいのかな」と言っています。夫は(私が)勉強を教えるべきだと言うのですが、私は家で勉強を教えたくなく、3年間平行線です。どのように思われますか?

勉強をする、っていうのは、勉強する本人のことです。

本人が「勉強したほうがいいのかな、って最近思うんだ。だからお父さん/お母さん、勉強教えて」と言ってきたのであれば、自分(たち)が教えられるな、と思うなら教えたらいい。
「塾を探して」と言ってきたのなら、一緒に塾を探してみたらいい。

とにかく「勉強する」本人が主役なわけだから、本人がどうしたいか、です。
そういう意味では、「勉強しろ」もおかしいけど、「勉強しなくていいよ」もおかしいんです。

こどもの「勉強したほうがいいのかな」というのも、毎日言っているのかポロッと言ったのか、お父さんの様子を伺いながら言っているのか、そこのところはこちらにはわからないけれど、わたしだったらこどもが「〜したい、だから〜してほしい」と言ってくるまで、こちらからなにか提供することはしません。

あと、「夫は勉強を教えるべきだと言う」とあるんだけれど、「べき」と思っている人が教えるのがいいんじゃないかなって思います。

当日は「話し合い」についてお答えしましたが、父親と母親のあいだでこどもが板挟みになって、「主役」としての自分も奪われ、不要な苦労を背負ってしまうのは、百害あって一理なしです。

夫の考えもひとつ、妻の考えもひとつ、こどもの考えもひとつ。
意見が異なっていることが問題ではないので、おしゃべりっていうものを通してみんなが自分の考えを言える・聞ける関係、空気をつくっていくことが重要だと思います。

(まりんさんは)親に見守られてきちんと育ったという好例だと思います。仮想の話ですが、よっぴーさんがこれはさすがにこどもを叱るべき、というシチュエーションはどんなものでしょうか?

当日お話したことに加えて、「叱る」は「評価」なので、いかなる場面であっても「叱る」がふさわしいときはないと思っています。

たとえば、こどもがコンビニで万引きをしたとします。
こんなときは、「叱る」をするのではなくて、「愛する」。
ここ最近やこれまでの自分を省みて、こどもをぎゅってすること(ただハグをするという意味ではなく、親が腹の底から省みたとき、あふれてくる愛情がある。勝手に涙がでるし、ごめん、ありがとうという想いが出る)。

親は「評価を与える人」になってはいけないです。

いい子であろうと、わるい子であろうと(そんなんないんだけどね)、そうした境界線を引くのではなくて、「愛する」をするのが親の務めだと思っています。

だいいち、なにか伝えたいなら「話す」でいいじゃないですか。「話す」では役不足だから「叱る」をしなきゃいけない場面なんてありません。

読み書き計算のうち、「書き」を自発的に学ぶにはどうすればいいでしょうか? 「書き」は役立つものだと思うので、こどもが嫌がらなければ提供していいでしょうか?

当日は「“自発的に学ぶ” と “提供する” の矛盾」「読み書きは自分と世界をつなぐものだから、役立つから、という発想はさみしい」といったことをお話しましたが、どうしてもあがきたいのであれば、親自身が日常的に、それこそ自発的に「書く」をしていること、その姿をこどもが自然と見ていることだと思います。

それでもこどもが「書く」をするようになるかはわかりませんが、「書く」にかぎらず、読書も片付けも勉強も思いやりもコミュニケーションも自立も、親がろくにやってもいないことをこどもに求めるのは、強欲すぎます(親がやっていないこと、興味のないことでこどもがやるようになることはたっくさんありますが)。

自分がなりたいものを誰かに(しかもこどもに)託して、こどもにいったいなにを教えていることになるのか、考えただけで恐ろしいじゃないですか。


今回、とてもいい時間をいただきました。主催のNOTHさん、甲野善紀さん、ご覧くださったみなさん、ご質問をくださったみなさん、本当にありがとうございました!

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