2023年6月のつぶやき

随時更新です。

2023/06/01

緊急事態条項の問題点をブログで記事にしたこと、「自衛隊への情報提供の除外申請」のことをFacebookで投稿したことからHさんと「ニーメラー神父の詩」と『茶色の朝』の話になった。
20年ぐらい前か。と言ってもすでに40歳もすぎた頃になってやっと、目の前にひろがり押し迫ってくる問題というのは、「問題」なんじゃなく、(問題の)「答え」なんやってことを知った。知ったきっかけは、『茶色の朝』(フランク・パヴロフ)を読んで。
社会一面に「答え」が映し出されて初めて「問題」に気づくんだ。「答え」が見えだすまでは「問題」に気づかない。気づいたところで用意した言い訳で目を閉じる。政府の思うツボ。 ここでいう茶色は、他の色は認めない全体主義の比喩。
ちゃくちゃくと事はすすみ、いよいよもって総仕上げの時をむかえている。 目を開けたら「茶色の朝」になっている、、それだけはごめんだよ。
けれども『現代政治の思想と行動』(丸山眞男)で「ニーメラー神父の詩」を知ったけど、丸山さんがその章を書きはったのは1961年! なんとも自分が生まれる前ってか。まあせいぜいきばるか。(y)

2023/06/06

小津作品『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』を観た。
『夢みる小学校』で堀さんが言っていた「自由にしていいんだよ。責任はすべてオトナがとってあげるからね」の意味を折につけ考えていた。 そんななか、旧東ドイツを旅していたとき「ああ、それって失いたくないものがあるからなのかな」と思い至った。(そう思い至ったけどいまも考え中)
いっぽう、「自由には責任を伴う」って(軽く扱う)やつも好きじゃなく、なんで好きじゃないのか、なにが引っかかるのか、もうずいぶん長いこと考えている。 ただ、いまのところ(自分が)わかっているのは、いずれもどちらもそれじゃあ自由じゃないよな、ってことだった。
大人の見る繪本 生れてはみたけれど』にヒントがあった。 ひとまずもう一回観ようっと。(y)

2023/06/09

人と比べてしまうことはありませんかという話だった。ないわけがないのだが(比較行為はそもそもネガティブなものではない)、ありますよというと齟齬があるんだろうと思う。比べはするけれども、だからどうということはないですね、というのがひとまずの答えだった。比べてしまって自分あるいは他人がどうこうで憂鬱になったり焦ったりする、というのは、比べることに問題があるんじゃなくて、それで嫌な気分になることでもなくて、なにを求めているのか混乱して収拾がつかないところにあるんだろう。
比べて、見えていなかったものを見て、じゃあこれが欲しいのかな、なにが欲しいのかな、という話になる。ばくぜんと比べてばくぜんと憂鬱になったり焦ったりしてもろくなことがない(あいまいな劣等感に満たされることでなにか別のものを満たしているならともかく)。というか、時にはそういうこともあるけれども、ろくでもない状態だなとうっすら自覚するくらいはしておきたい。なにか自分の欲求に気がついたら、自分の欲求について考えざるをえないわけだから、「人と比較して落ち込んでしまう/焦ってしまう」みたいな感覚とは微妙にズレがあるんだなと、そういう話なのだなと思った。(m)

2023/06/12

信頼されている子どもは自分で考え、自分の意志で、しっかり前に歩いていきます、かぁ〜。そうだよな。
親が変わったことで再び登校するようになったある不登校の本にこう書かれてあったけど、信頼されていないこどもも自分で考え、自分の意志で、歩いていくよな。なにより、不登校をするようになったことがそう。信頼されていなくても ”不登校する” をする。親の「善し」物差しは目をつぶすな。(y)

2023/06/14

手垢のついた個性、個人、あるいは「学校に行くとか行かないとかは問題ではない、大事なのは自分」という主張、なんでも「自分」へ結びつけられ、あいまいや複雑が絡めとられていくなかで、「学校に行くとか行かないとかは問題ではない、大事なのは自分」と言うことはむずかしい。同じ言葉に別の意味がある。わたしも含めて、誰もが「読む」わけではない。たくさんの前置きを要するうちに色褪せる、とはいえ鮮度は誠実さと同位するものではないんだろう。多くのことが表裏一体であっても、ひとつを切り取ればひとつはなかったことになる。表には裏がある、というか平面ですらない。表でも裏でもないひとつと、いま提示されている一面を同時に見ることは、どんなふうに難しいのか。(m)

2023/06/19

オルタナティブスクール(という名称)の著しい増加は、ひとつに、「不登校」にたいするコンプレックスだろうという話をした。どこもかしこも学び、学び、という。その学びってなんなんですかね、と思うが、中身はいまいちはっきりしない。多様という言葉が空洞化していくように学びも空洞化していく。多様な学び。
五教科は大事だけど絶対に学校でやらなあかんというようなものでもないし、やり方もいろいろだから、うちではこういう雰囲気で、こういうカリキュラムでやります、というところはわかりやすい。ねじれたコンプレックスもないだろう。が、学校には行くべきであるし行けるほうがいいに決まっているのに、いざ行かない、行けない、でも否定ではなく肯定を(これも流行っている)、というわけで、「学校なんて行かないほうがいいくらい」「学校なんてナンセンス」みたいな方向転換が行われる、というのが、ここ数年でとくに高まってきた傾向だと思う。はっきりした話ではないが、オルタナティブスクールは、一条校に行けるからとか行けないからとかではなく、これがいい、という場所だったと思う。だからフリースクールやフリースペースとの棲み分けがわりと明確になされていた時期が、一時期なりにあったような感じがする。いまは「<不登校>じゃないです」「学校行ってます」「学んでます」という弁解のようなものに一役買っているところも多い、という体感。実際のところはわからない。とはいえ、それは「不登校」が異様なまでにネガティブに扱われているなかでは価値があることだった。今はどうだろう。(m)

2023/06/21

監督さんがだれで、主役はだれで、どんな内容の作品なのか、なんも知らないままにしておいて『C’MON C’MON』(カモンカモン)を観た。
観終わって、ぽつりぽつり語るわたしの感想を聞いていたまりんさんから、この映画への感想で「こどももおとなといっしょなんですね」「対等なんですね」「ひとりの人間なんですね」「対話は大切ですね」「こどもも考えているんですね」といった感想があるのを知り、軽く驚く。あとで自分でもググってみてみると、こどもたちへのインタビューがよかった、こどもとの接し方や声掛けが参考になったという高評価レビューまであった。再度驚きながら、未経験でも数ヶ月で心理カウンセラーの資格がとれるとかいう養成講座を受けて、資格をとって、心理カウンセラーやセラピストと名乗って仕事をする人たちと、その人たちからカウンセリングや講座を受ける人たちが頭にうかんだ。(y)

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