『かすかな光へ』大田堯さんが教育を問い続けたドキュメンタリー映画の紹介と感想

大田堯(おおた たかし)さんのドキュメンタリー映画『かすかな光へ』を紹介します。

こどもを育てるってどういうことだろう?
こどもとかかわるってどうやって?
いい教育ってどんなだろう?
そもそも教育ってなんだろう?
学ぶってなんだろう?

そんなことをぼんやりとでも考えられている方や、深く考察していかれる方々のヒントになる作品ではないかと思います。

93歳の教育研究者・大田堯の挑戦を追った、森康行監督の映画『かすかな光へ』の紹介と感想です。

教育を問い続けてきた大田堯さんの『かすかな光へ』

「させる」「やらせる」といった「教え育てる」従来の教育観を根底から覆し、「ちがう、かかわる、かわる」を大切にした命と命のひびきあい。
大田堯さんの教育を問い続ける姿に、学校教育や子育てへの手がかりをみることができるでしょう。


『教育とは何か』(岩波新書)、『かすかな光へと歩む』(一ツ橋書房)、『教育の探求』(東京大学出版会)、『子どもの権利条約を読み解く』(岩波書店)などの著者であり、東京大学・都留文科大学名誉教授、日本子どもを守る会名誉会長で教育研究者の大田堯さん。

撮影当時の93歳にも、講演や執筆に熱心に取り組まれていました(2018年に逝去)。


『ビキニの海は忘れない』、『渡り川』、『こんばんは』など数多くの記録映画、テレビ・ドキュメンタリーの演出を手がける森康行さんが監督を務められています。

一兵卒として体験した戦争。そこで待っていたのは36時間の生と死が交錯した漂流。生きる力を試されたジャングル生活。生活に根ざした知恵と力を身につけた農民兵、漁民兵などの労働者との出会い。ズタズタにされたプライド。「俺は一体、何のために生きているんだ!」

敗戦直後、さまざまな職業の住民参加の中で取り組んだ“民衆の学校”づくりとその挫折。そして、自ら働く人たちのなかに飛び込んでいった共同学習―それは村の「不良青年」と生活を共にし、学ぶことを通して、初めて心と心が通った学習体験だった。

社会も教育の姿もガラリと変わった高度経済成長時代―国を被告とする家永教科書裁判、そして、人間の絆が断ち切られる孤独化現象。大田堯の人生は戦後と真正面から向かい合っていく。そのなかでつかんだ教育とは、「教え育てる」という従来の教育観を根底から覆すものだった。そして大田はいま、自然の摂理にそった生命あるものの絆の再生をめざす。

「かすかな光へ」公式サイト http://kasuka-hikari.com/staff/

教育はだれのものか

撮影当時93歳の大田堯さんのドキュメンタリー映画『かすかな光へ』は、2011年に劇場公開され、以降いまも自主上映がされています(大田堯さんは2018年12月23日老衰のため逝去、100歳でした)。
自主上映というスタイルでなくても、個人で観ることもできます。今回わたしたち(よっぴーまりん)も二人鑑賞でDVDを借りました(詳細は後述)。


『かすかな光へ』をはじめて観たとき、しびれた。


いきなり自分のはなしで恐縮だけど、息子の不登校をきっかけに教育というものへの関心が高まったわたしは、大田堯さんの書籍学力とはなにかや『なぜ学校へ行くのか』『教育とは何か』『教育とは何かを問いつづけて』などを読むことで、(自分なりに)教育ってなんだろう? 学校ってなんだろう? といったことを腹の底から考えるようになりました。

まりんさんとの共著『小さな天才の育て方・育ち方』で書いたことだけれども、わたし(たち夫婦)は、こどもが生まれたとき「この子をどう育てようか」とか「〇〇になるように育てよう」とかいった思考を持ち合わせていない二人でした。

そういった思考を持つのはへんだよ、とか、持たないようにしようと話し合ってそうしたのではなく、かと言って、親の所有物じゃないのだから、こどもにはこどもの人権や人格があるのだから、この子と自分は違うのだから……「だから」そうした、のでもなく、言ってみれば天然(笑)。

わたしたちにとっては極々自然なことでした。

けっして、やりたいことをしなさいとか、してほしいとか、好きなことをしよう!とかでもなくて。
のらねこと縁あっていっしょに暮らすようになったとして、そのねこを、どう育てようかとか〇〇になるように育てようなどとは思わないのとおなじように。


大田さんの書籍には、わたし(たち夫婦)のそんな無意識が文字化されていました。
そして映像化されているのが『かすかな光へ』。


映画は、谷川俊太郎さんの詩と朗読で始まります。

そして大田さんの戦中体験から、戦争は人間の肉体ばかりではなく、魂の圧殺行為を意味するものだと語られます。

戦後、地元(広島)に戻って、教育活動に従事される大田さんは、戦争体験を通して、上から下へ人民を教育する、そんな国家主義による教育はダメだ、教育は地域からだ、自分たちでだ、と考え、地元で「民衆の学校(本郷地域教育計画)」をつくり、教育というものの見直しを始めます。

しかし、朝鮮戦争が起こると、民主主義国家を目指した日本の状況はガラリと変わり、ふたたび国益に沿った画一的な教育、国が決めた都合のよい人間をつくる教育方針に国はもどります。

学習指導要領は法的拘束力があるものとされ、教科書検定も強められ、教育の国家統制がすすめられていくなか、生きる力を育む学びとはどのようなものなのか、教育は人間にとってなにができるのか、大田さんの生涯にわたる問いかけが始まりました


そうだよなぁと思うのは、国家の手によってやっている教育はダメだ、地域からだ、と言っても、それとて上から下へと降りる『「教育する」教育』にかわりないということです。
昨今で言うところの「やりたいことをする」「好きなことをする」も、それが「させる」「させたい」であるのなら変わりはないでしょう。大田さんは反省の思いが強かったと言います。

上が決めた都合のよい人間、理想とする人間をつくる人材教育にたいし、はたしてこどもたちは学校で何を学び、それが生活にどのように役立っているのかを調べるために、全国をまわりはじめる大田さん。しかし、調査だけでは限界がありました。

大田さんは言います。「調べる者の立場だから、上からの鳥瞰図は読めるけども、人間の内面は読めない。人間の内面を読まないことには教育っていうものは、どうしようもない(…)」


以前、星山まりんが書いた記事
親や先生、あるいは誰か大人にこどもが「声」を求められるとき、その声はどんなふうに口もとまでやって来るんだろう?
子どもの気持ちは、どうすれば「聞ける」んだろう? ー 「訊く」と「聞こえてくる」について

にもあるように、「あなた」から「あなたのこと」を聞き出すのは、難しいこと。


大田さんは働く人たちのなかに飛び込んでいき、いわゆる落ちこぼれの不良青年たちと生活を共にして、「教える」ではなく自らが学習していきます。そうしてやがてこどもたちのこころが開いていくことで、こどもの内面に入っていかれるのでした。


『かすかな光へ』では、
こどもの内面に入るとは、どういうことを言うのか、
かかわるとは、どういうことを言うのか、
こどもとの暮らしで、なにが大切か、
教育とはなにか、
93歳のいまも探究される姿が語られていきます。

こどもの基本的人権をまもるとはどういうことか

昨今、なにかにつけ人権、人権、、と謳われるようになったけれども、いざ、わが子の「基本的人権」をまもろうといわれても、実のところなんだかわかったようなわかってないような感じでいたりもしませんか?

映画のなかで、(こどもの)基本的人権とはどういうことか、どういうものか、大田さんの考えを聞くことができる場面があるんですね。
生涯、教育とはなにかを問いつづけた大田さんのそのおはなし、その説明は、頭を通り越してズトンと五臓六腑に沁み渡るのです。


大田さんは話されます。

だれもが生まれながらにしてもっている基本的人権ではあるけれど、重要ではあるとは思うけれど、いったいどういうことなのか? ってのはなかなか実感としては掴みにくい。
そこでいろいろと考えて、生まれながらにして有する権利というんだから、これは、生まれでるのは命だから、命というものと関わりがあるはずである
、と。

生命の特徴というものを考え直してみたら、基本的人権という言葉を解きほぐしていくことができるではないか、と。


生命の特徴というものを考え直していく過程や、なんかほんとにね、からだの奥に沁み入ってくるの。

基本的人権ってそういうことなのか、ってことがからだの奥で潤うもんだから、たとえば、「こどもを叱るのはよくないんだって。だから叱らないようにしよう」と思って叱らないよう努力するのではなく、「叱る」が消えるかんじ。

うちの子は言うことちっとも聞かなくてほんと子育てはたいへん…ってなっちゃうあのイライラが生じないかんじ。

だからこどもとの人間関係は自然とやわらかくなる。


大田さんは、このおはなしの最後のほうでこう言われます。

「違いを受け入れあい、それぞれの可能性を信じあうということは、日常的な生活のなかに段々と染みとおっていったときに、平和の基礎になる心構えが我々のなかに少しずつ蓄えられるということになるのではないでしょうか」と。


大切なその要点を「受け入れる」ではなく「受け入れあう」、
「信じる」ではなく「信じあう」なんですよね。

鑑賞方法

2011年劇場公開時、夏休みを越えて引き続きロングラン上映となり、たくさんの方々が鑑賞された映画ではありますが、その当時は知らなかった、観られなかった、人たちに朗報です。

『かすかな光へ』は、自主上映会はもちろん、学習会や研修会、個人グループなどへのDVD貸出も行われています。

詳しくは公式サイトの概要 http://kasuka-hikari.com/guidance/ をご覧ください。

関連書籍

大田堯さんの著書では、現在も手に入りやすいものだと、以下の5冊がおすすめです。
2冊目〜5冊目は自選集のシリーズとなっています。

学校教育(一条校)がどう問題なのか、なにが問題なのか、といったことがクリアになり、自分で考える参考にもなります。

国から降りてくるものが教育なのではなく、教育は人間の本質にもとづいたもの。
教育は人間の本質、いのち、原点で、やりかたではなくありかた。

その地点から広がっていく、ヘそのような本で、(おとなでもこどもでも)自分が生きていくうえでの足場をかためていく手助けになると思います。

「憲法26条「教育を受ける権利」のおかしさを通して教育を考える(前編)」の記事では、大田堯自撰集成1 生きることは学ぶこと 教育はアートで大田さんが書かれている education と 教育 についてもふれています。

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