親や先生、あるいは誰か大人にこどもが「声」を求められるとき、その声はどんなふうに口もとまでやって来るんだろう?
「利用者の声」や「女性/男性の声」、「国民の声」などといわれるとき、この声ということばは、どことなく抽象的で、ぼんやりしている。
問いかけられ、どこから声が出て、どれほど届くのか?
届かないものはやがて声にもならなくなる。
こどもの声はどうだろう?
いくらか狭められたこどもの声
こどもの声といわれるものが、ほんとうにこどもの声なのか?
「◯◯ちゃんはこれがいいよね」といった形ばかりの確認、露骨な誘導はもってのほかであるにしても、「こどもたちの声を聞く」という行為がなされるとき、「こどもの声」はどこにあるんだろうか?
なにか意見を参考にしようということで、「利用者の声」といわれたり、ものごとについて当事者ではない側に位置する「女性/男性の声」、あるいは「国民の声」といわれたりするものがある。
この声ということばは、どことなく抽象的で、ぼんやりしている。声そのものはクリアであるはずなのに、「聞かれたもの」になるとき、なにかオブラートに包まれたような響きがある。
問いかけられ、どこから声が出て、どれほど届くのか?
届かないものはやがて声にもならなくなることを考えれば(きっと誰しも身に覚えがある)、こどもの声というのは、ほんとうはいくらか狭められたものであるように思う。
街の住み心地はどうですかと聞かれたら
たとえば、街の住み心地はどうですかと不動産会社のひとに尋ねられたら、よほどの遺恨でもなければ「いいですよ」と答えるひとがほとんどであるように思う。もちろんわたしも。
よくなかったと思う点を伝えるとしても、そのぶん、よいところを持ち出してフォローしようとしたりする。
伝える相手は街そのものでも、街の代表者でもない。わたしがその街をどのように感じていても、誰にも恥じたり遠慮したりする必要はないのだから、そんなふうに応じなくたっていいのだけれど、そういうことをする。
馴染みではない飲食店で、お店の人においしいですかと聞かれたら、よほどそのお店で最悪な思いをしたのでもなければ、特別おいしくはなくても「ええ、おいしいです」と答える。
いまいちだと感じることを話そうとするときには、ただの文句と受け取られらないように、明快で、相手が納得しやすそうなことを伝えようとしたり、なぜそうなのかと尋ねるような形にしてみたりするんじゃないかと思う。
ある商品について企業が簡単なアンケートをとるとき、ちょっと改善したほうがいいのにと思うことがあっても、わたしたちはたいてい、無難そうな回答をする。
あるいは、インターネット上で、匿名で商品や作品のレビューを書くなら、わりと好きに言えるひとは多いのかもしれない。
こどもの場合はどうなんだろう?
親や先生、あるいは誰か大人に「声」を求められるとき、その声はどんなふうに口もとまでやって来るのか?
「言わなかったこと」が語ること
わたしたちが不動産会社のひとに、飲食店のひとに、企業に、「声」を届けるとき、わたしたちはいくらか遠慮したり、思いやったり、善人であるそぶりをしたり、当たり障りのないやりとりをしようとする。
こどもは素直であるというけれど、噤んだ声がいくつあるだろう?
そもそも、不動産業にせよ飲食業にせよ、自分が尋ねる側であるとき、わたしたちは相手の言ったことが必ずしもすべてではないことをふまえて、ことばを受け取っている。それはひとつの様式として、わたしたちの社会にある。
一方で、尋ねたわけではないのに発せられたものは、様式を抜けてまっすぐ届いてくる感じがする。
親の場合は、ふだんから無駄も真面目もおかまいなしに混ぜて話をしていれば、あらたまってこどもの声を聞こうとする必要も、参考意見を集める必要も、ほとんどない。
わざわざ求められるとき、多くのこどもは、求められているものを理解している。
求められたように言うかどうかはその子しだいであっても、求められていないことを言わないようにすること、つまり想定されたこどもの中へ自分を収納して見せることなら、多くの子がやってのけ(てい)る。
じゃあこどもの言うことは本当ではないとすべて疑えばいい、というような安直な話ではないけれど、相手がこどもであるというだけで、すべてが真実であるとか、聞こえてきたものだけがすべてであるとか、そんなふうに思いこんだら、それはこどもの声をひとつ殺すことにも繋がるのだと思う。
こどもは素直だというけれど、こどもが言わなかったことの積み重ねのほうが、よほど雄弁だってこともある。多かれ少なかれ、わたしたち誰もがそうであるように。