工藤勇一さんと苫野一徳さんの対談書、『子どもたちに民主主義を教えよう―対立から合意を導く力を育む』(あさま社)を読みました。
SDGsの理念でもある「誰一人置き去りにしない社会」。これが工藤勇一さんの考える民主的な社会であり、「よい学校をつくるためには」と、SDGsの「よい社会をつくるためには」は、同じことだと言われます。
今回紹介する(ならびに後半では感想を述べる)『子どもたちに民主主義を教えよう』には、SDGs教育の取り組みに、学校で学ぶべきことはまさにSDGsの理念であるという工藤さんの考え方、ならびにその具体的な実践が述べられており、工藤勇一さんは、「誰一人置き去りにしない社会をつくる」「絶対に社会を後戻しさせない」という覚悟をもってつくられたと本だと言います。
そのため、教育哲学者・苫野一徳さんの力をも借りられて、
- なぜ、いま民主主義なのか
- 民主主義とは何か
- 学校が民主主義の土台をつくる場である、とはどのようなことか
- 公教育とは何か
- 公の学校は何のために存在するか
- 何を学ぶべき場所なのか
- なぜ、子どもたち同士の間でのトラブルに、ジャッジや指示・命令をするような「裁判官」や「警察官」にならないのか
- なぜ、当事者である子どもたち自身に、問題の解決にあたってもらうのか
- その手段、方法はどのようなものか
- 生徒にたいする本当の厳しさとは何か
- 民主的な学校の条件は何か
- 民主主義の実現に不可欠な学校には、どのような要素が必要か
- なぜ、いま教育の現場で民主主義を教える必要があるのか
- 民主主義の意義は何か
- 日本人が民主主義を理解しきれない理由ななぜか
- 日本に民主的な思考が根付かない理由は何か
- では、なぜ、工藤勇一はできたのか
といったように、公の学校を民主主義の土台へと変えるという目的のため、工藤さんの学校改革と苫野さんの教員養成改革、抽象と具体、理論と実践の双方から話されています。
もくじ
「自律」「尊重」「創造」の教育目標が実現したら、学校はどう変わるか?
東京都千代田区立麹町中学校の職員室に掲げられている、「自律」「尊重」「創造」と書かれた教育目標。その隣には、教育目標よりさらに大きく「目的は何のため」と書いたどでかい貼り紙がしてあるそうです。
これは、工藤さんが麹町中学校の校長就任時に貼られたもので、そもそも何のための教育か、何のための指導か、何のためのルールなのか、(教員がこどもたちにむかって発する言葉にたいして)何のためにその発言をするのか、それらの本質を不在にさせないためだと言います。
それらを意識していかないと、日本の教育はいつまでも変わらないと言われます。
「誰一人置き去りにしない社会」/『子どもたちに民主主義を教えよう』第1章
現在は横浜創英中学・高等学校の校長である工藤さんは、本書でいちばん伝えたいこと——民主的な社会とは「誰一人置き去りにしない社会」のこと——という立場を冒頭で明確にしています。
自分の居場所がちゃんとあって、自分らしく生きることができて、意思に反したことを強要されたり権利が不当に侵害されたりすることがない社会。そして、ここが重要なんですけど、みんな自由なんだけれども、ちゃんと平和的に共存できている社会。これが民主主義の理想です。
『子どもたちに民主主義を教えよう』p.31-32
これに対し、教育哲学者の苫野さんも、
私もまったく同感です。
『子どもたちに民主主義を教えよう』p.32
とこたえられ、本の帯にある「多数決の問題点、わかりますか?」を皮切りに、「民主主義の本質とは何か」というテーマを軸に、工藤さんと苫野さんお二人による、日本の学校教育が目指すべき方向性についての対談がはじまります。
工藤さんは、多数決を使わずに、意見対立のある状態から「誰一人置き去りにしない社会」=少数派を切り捨てずに合意にいたる対話の方法や、対話のコツ、対話の概念。それら民主主義の土台をつくっていく礎について、実践例も併せて述べていかれます。
なお、「誰一人置き去りにしない社会」。この言葉は、2015年9月、国際連合サミットで採択されたSDGs(Sustainable Development Goals)こと「持続可能な開発目標」の理念から用いられています。
工藤勇一さんがなぜこの言葉を使われているのか、そのお話も『子どもたちに民主主義を教えよう』第1章で書かれていました。
苫野さんは、デモクラシーの歴史とともに、(苫野さんご自身が考える)民主主義の本質を、ヘーゲルが提唱した「自由の相互承認」とルソーの「一般意志」、この2つのキーワードでわかりやすく語られます。(私事だけど、いまちょうど大学でヘーゲルの『精神現象学』から政治的専制としての「主人と奴隷」についての授業を受けているところだったので、ヘーゲルに関心をもててツイてた!)
苫野さんの語られる「民主主義の根本原理は何か?」は、きわめて重要なことなので、先生方だけではなく、子と暮らすいち親としても、知っておきたい(知っておくべき)原理です。
子育てがたいへん! と感じたり、不安をおぼえたり、また、こどもといるとイライラするとか、こどもが何を考えているのかわからない……なんてときというのは、この民主主義の根本原理が体から落っこちているときなんじゃないのかな、とおもったりします。
「誰一人置き去りにしない」「自由の相互承認」「一般意志」のほかに、第1章で出てくるキーワードには、「最上位目標」(全員が合意できる最上位の目標)があります。
いずれも対話(話し合い)を通して練り上げられていく、その対話の重要性と公教育の役割を明快にし、民主主義の最も重要な土台を、とってもわかりやすく説明してくれています。
では、なぜ、公教育が民主主義の土台になりえていないのか。民主主義の土台はどうすれば実現していくのか。
この問いをもって、対談は2章へとつづきます。
学校教育に牛耳られている「心の教育」から解放/『子どもたちに民主主義を教えよう』第2章
『子どもたちに民主主義を教えよう―対立から合意を導く力を育む』第2章は、民主主義を妨げてきた/妨げている日本の学校教育の問題点と、その解決についてのお話です。
工藤さん、苫野さんお二人は、民主主義を妨げている問題——「心の教育」「いじめ問題」「教員養成」「理不尽な校則」「学級運営」「教師の力」——を6つ取りあげ、これらの問題に潜む常識や慣習がいかに民主主義を妨げているのか、それらがどう問題なのか、そしてどう改善していけばよいのか解明していきます。
たとえば「心の教育」(道徳教育)が、どうして学校が民主主義の土台になることを妨げている原因となっているのか。
ここは、従来とは異なる規範なので戸惑う人もいるかもしれません。少し長いですが要所を引用しますね。
工藤 実は、民主主義の成熟を妨げてきたものに、これまで日本でよいとされてきたものがあります。それが「心の教育」です。
『子どもたちに民主主義を教えよう』p.82-83
具体的な言葉を挙げれば「思いやり」「無償の愛」「仲良くしましょう」「一致団結」「心をひとつに」「絆」……挙げればきりがありません。日本の学校でこれらの言葉を使わない教員はたぶんいないし、「心の教育」を否定する教員もいないでしょう。(中略)「心の教育」の問題は、できもしないことをゴールに設定していることです。これがいろいろな歪みを生むんです。
先日もSNSである有名な方が「誰一人置き去りにしない学校をつくるためにはどうしたらいいか」と投稿されていたんですけど、その結論が「思いやりの心を持つこと」だったんです。そして案の定、その投稿に対して「いいね!」がいっぱいつくんですよ。
現実的に考えてほしいのですが、社会を持続可能にするためには対立をどんどん解きほぐしていかないといけませんね。対立を解きほぐすために何が必要かというと、どんな対立があるのかを明確にしないといけません。そして対立を平和的に解決するには、お互いの利益を損ねないためにはどうしたらいいか対話を重ねないといけない。
(中略)ちゃんと現実を直視して、感情を切り分けて、理性的に物事を考える。これが「誰一人置き去りにしない社会」をつくる唯一の方法だと思っているんです。
苫野 実は学校は、本来、道徳教育をするべきではないんです。(中略)学校教育がやるべきは、モラル教育ではなく、「自由の相互承認」のルールを教え、またこれを実践できるようになるための「市民教育」だということになります。(中略)
『子どもたちに民主主義を教えよう』p.87-89
いずれにせよ、市民教育にとって重要なのは、異なる価値観の持ち主がいかにお互いを認め合い共存できるかですね。もちろん、そのためには相手の気持ちを考えることも重要です。思いやりも大事です。でも、工藤さんがおっしゃった通り、相手の気持ちを考え、思いやりを持って生きればみんなハッピーになれるかと言えば、そんな甘い話ではないですね。本書のテーマである「対話を通した合意形成」の経験を積むことが、やはり何より重要です。
日本の学校の問題点として、
- 文部科学省がいじめ防止対策推進法で定義している「いじめの定義」のこと
- 教育学部の教育実習の手引きや教員養成のこと
- 本来ルールはみんなで民主的に決めていくものであり、一度決まったルールも変えていけるものであるのに、学校では一方的に従うものと教えていること
- 自分の学級に「我々意識」(集団的規律)ができあがっていくこと
- 先生の能力の上げ方
などなど、「心の教育」(道徳教育)以外の5つの問題についても、するどく言及されています。そしてどう改善していけばよいのかが語られています。
この2章もまた、「いじめ」のことをはじめ、村落共同体のような集団的規律のこと、自分ではなかなか気づけない「心の教育」に陥っていないか日常の言葉を振り返ってみるチェックリストのほか、こどもへの「3つの言葉かけ」の仕方なども書かれていて、どんな教育なら「よい」と言えるのか、親さんも参考になるのではとおもいます。
学校を、民主主義を学ぶ場に変えるヒント/『子どもたちに民主主義を教えよう』第3章
『子どもたちに民主主義を教えよう―対立から合意を導く力を育む』第3章では、日本の学校を真に民主主義の土台にしていくためにはどうすればよいか、具体的な手段と道筋を探られています。
工藤さんは、学校は「対話」で変わると言います。学校の活動を、民主主義を学べる場へと少しずつ変えていくと、周囲の大人が驚くぐらいこどもたちは成長していくと。
苫野さんも、日本の学校に「対話」の文化や仕組みを、意識的にインストールしようと、教室でも、職員室でも、対話を通した合意形成の場がもっと日常的に必要だと、言い続けてこられています。
こどもたちに民主主義を教えるためには、こどもたちに「当事者意識」をもたせることが重要だと工藤勇一さんは語ります。
いま教員たちが主導している学校のさまざまな活動を、子どもたち主体の活動に変えていけばいいんです。(中略)つまり、自分たちの学校をどうやって改善していくか。その仕組みをどうすればいいか。それらを、どんどん子どもたちに委ねてあげればいいだけです。
『子どもたちに民主主義を教えよう』p.146
そうすることで、委ねられたこどもたちは、自分たち(こどもたち)が学校をつくるんだ、つくるものだ、つくっているんだ、と思えるようになると工藤さんは述べられ、千代田区立麹町中学校で実際にあった自律させるための活動、対話を経験させるための活動、自分たちで仕組みをつくるための活動、それらの具体例に触れられています。
加えて、苫野さんは、対話を通した合意形成を目指すアプローチとして、「超ディベート」(哲学対話のひとつで、別名「共通了解志向型対話」)を詳しく紹介されます。
これは、従来の競技ディベートのように論争に勝敗をつけるのでなく、第3のアイデアを考えあうもので、建設的な議論に発展し、民主的にものごとを決めていくのにぴったし!(一部のデモクラティックスクール・サドベリースクールや我が家では、この対話(話し合い)はよく登場します)
こどもたちが「当事者意識」をもつこと。そのためにも、1にも2にも対話が大事。
日本の学校を真に民主主義の土台にしていくために、学校はどう変わっていけばよいか。その具体的な手段と道筋は、さらに続き、
- 対話を学校に根付かせるために必要なことは何か
- 学校を変えていくときに欠かせない要素は何か
- その要素を用いるときの3つの自問とは何か
- 学校を変えていくときに改革を阻害する3つの原因は何か
- ゆえに、どうすればよいのか
と、手引きのように書かれています。
この意識改革がなされていく3つのステップのなかで、「叱る」について書かれている箇所があるんですね。工藤さん曰くの「叱るものさし」が表にまとめられていて、これは先生方に限らず、親さんも知っていて損はないかとおもわれます。
そして工藤さんは、校長でなくとも、20代の赴任したての平教員でも、学校を変えることはできると言います。その方法も具体的に述べられています。その内容は、苫野さんが「肝に銘じます」と感嘆されるほどのもの。
苫野さんもまた、教員養成で対話型の研修を先生方にされていて「いいな」と思われた出来事や、大きな成果を生んだ実践の話などを紹介されています。保護者が学校を変えたいと思った場合のグッドアイデアも紹介してくださっています。
「よい教育」をつくるための誘い/『子どもたちに民主主義を教えよう』終章
この章は、苫野さんおひとりで綴られている「おわりに」の章で、対談ではあまり言及できなかった教育学の使命について書かれています。
と、「読書対話の会」へのお誘いを呼びかけられています!
本書は、ぜひ「読書対話の会」などを企画して読んでいただきたい本でもあります。中高生同士や保護者同士や先生同士、さらには、生徒、保護者、教師の三者で行う読書会なども、ぜひ開いていただけるとうれしく思います。教員養成の現場でも読まれてほしいですし、校内研修や種々の教員研修、管理職研修などの、ひとつの素材にしていただけたらとも願っています。
『子どもたちに民主主義を教えよう』p.217-218
とのこと!
デモクラティックホームでも、学生さん、先生さん、親さんといろんな方が遊びにこられているので、それぞれの立ち位置からかんじる感想や問題点を述べ合ったり、批判する知性でもって昨日にないものを切り開いていけたらいいな。
『子どもたちに民主主義を教えよう』をお読みになられた方で、「読書対話の会」ご希望の方は、ご訪問メールのおりにでもご一報ください。
わかりやすさは疑わないといけない
工藤勇一さんと苫野一徳さんによる対談形式の本書は、苫野さんが終章で書かれているものだなと、わたしも思います。
今回の対談は、まさに、「工藤勇一は、なぜ、どのようにして、民主主義の土台としての学校づくりを可能にしたのか?」という問いに答える(後略)
『子どもたちに民主主義を教えよう』p.220
ほんとにね、見事なまでに、工藤さんの実践を可能にした諸条件がわかりやすく明らかにされています。
しかしながら、「わかりやすさ」は疑わないといけないんですよね。
家庭においても、デモクラティックスクール(サドベリースクール)でも、何か自分「たち」のことを決めるときは、だれもがイヤじゃない結論(工藤流に言えば「誰一人置き去りにしない」)になるまで、1時間でも、、1週間でも、、ひと月でも、、1年でも、、話し合って(対話して)、議論しあって、みんなで決めてきた/決めている者としては、
また同時に、「最上位目標」というものも自分たちで決めている者としては、工藤勇一さんが言わんとする「民主主義」に、度々ひっかかりを覚えました。(ひっかかるからこそ、何度も本書を読んで、ん〜ん〜とひっかかっているものを考えこむわけで、それがよかったです)。
最初にひっかかったのは、民主主義を目標にしていることが書かれていた序章の頁です。
ん? 言葉のあやかな?
と思いなおして、先を読みすすめました。
次に、SDGsの理念のことに触れている箇所もあったけれど、それよりも「誰一人置き去りにしない社会」づくりの具体例を読んで、こども(生徒)に「拒否権はないの?」とおもったことでした。民主主義なのに? って。
「最上位目標」は、工藤校長が決めていることにも驚きましたが、
小学生や中学生くらいのうちだったら、最上位目標を無理に子どもたちに考えさせる必要はなくて、大人が責任を持って考え、設定してあげればいいと思います。そこで失敗すると民主主義教育にまったくなりませんから。
『子どもたちに民主主義を教えよう』p.45
とあり、あぁそういうことか、と合点がいきました。
民主主義を子どもに教えるときは、「誰一人置き去りにしない社会をつくるんだ」という目標と、「社会は自分でつくるものだ」という意識と、「どうやったらそういう社会がつくることができるか」、その技術を学んでもらえばいいわけですから。その体験を学校でさせてあげればいいんです。
『子どもたちに民主主義を教えよう』p.146
民主主義を子どもに教えるときは、とあるけれども、「誰一人置き去りにしない社会をつくるんだ」という目標と、「社会は自分でつくるものだ」という意識と、「どうやったらそういう社会がつくることができるか」、その技術を学ぶ ことがイコール民主主義、ではない(言葉の綾ではなく、解釈の自由を無視しているのでもなく、また100%ちがっていると言っているのでもなく)。
これは民主主義というより、工藤さんが考える理想、学校ってこうだったらいいな、じゃないのかなとおもいました。
「誰一人置き去りにしない社会(学校)」とあるけれど、「置き去りにしない」は、置き去りにすることができる側の思考回路なんですよね。強者の発言なんです。
置き去りにされるよりは置き去りにされないほうがいいけれど、民主的ではないこの言われようなら、置き去りにしてもらってもけっこうよ、と中学生のころの自分だったら抗ったかもな、そんなこともおもった。目の前に立つ権力に。
「子どもたちにSDGs教育を施そう」?
本書のタイトルは『子どもたちに民主主義を教えよう』なんだけれども、「子どもたちにSDGs教育を施そう」のほうがしっくりきますね。
SDGs(持続可能な開発目標)は、目標をつくって、そこに到達できるように社会を変えていくことに大きな意義があるんですよね? 「誰一人取り残さない」という理念を掲げて。この理念もまた強者国からのものです。
「誰一人取り残さない」という軽薄な言葉を目にすることは日ごとに増えました。
「持続可能な社会の創り手の育成」が明記された新学習指導要領の実施で、学校教育においてSDGsはますます求められている流れにあります。
工藤勇一さんは、GetNavi webのインタビューでも、次のように話されています。
「よい学校をつくるためには」と、SDGsの「よい社会をつくるためには」は、同じことなんです。最上位の目標がきちんと決まり、目標を実現するための手段を選べば、その手段が次の目標に変わり、さらにその手段を選ぶことができます。
(中略)
そもそも学校とは、子どもたちが将来、社会の中できちんと生きていけるようにするための準備期間だと考えます。そして、学校のもう1つの役割がよりよい社会をつくっていくことだと考えます。誰一人取り残すことのない社会を創り上げることは、容易いことではありません。一人ひとりを尊重していこうとすることは、当然ですが利害関係の対立が生まれるからです。しかし、対立を乗り越え、学校の中の社会を長期的視野に立ち、全員が持続可能な方向でみんながOKと言えるものを見つけ出す。それこそが学校で学ぶべきことだと私は考えます。まさにSDGsの理念です。
SDGsの真の意味、理解してますか?――麹町中学校元校長・工藤勇一先生に聞く「学校教育とSDGs」【後編】
問題点を批判する知性が「強い男」を追っ払う
「心の教育」もそうだけど、政府が教育を牛耳れば、教育は「教育する」になってしまいます。(次回のブログで詳しく書きます!)➡︎ 書きました!⇒ https://ai-am.net/26jyou-1
教育ではなく、教化(洗脳)になってしまいます。
民主主義を目標にしてしまうと、全体主義になってしまいます。
民主主義には2つの欠点があります。そのひとつ、民主主義は、一歩間違えば衆愚政治に陥りやすく、このことは苫野さんも本書で伝えてくださっています。
大衆は往々にして、指導者に簡単に扇動されたり、感情的になったりして、理性的な判断ができなくなることがあるんですね。
『子どもたちに民主主義を教えよう』p.36
それから、ハンナ・アーレントが『全体主義の起源』で言う「強い男」のことも。
経済格差が拡大し、教育格差も拡がり、雇用や福祉、道路、水道などの基本インフラが崩壊しかけているといわれる現代社会で、「問いを立てて考える」「考え続ける」のない根無し草の大衆たちは、たやすく「全体主義」にとりこまれていく可能性があると言います。
序章に、「社会全体がただただ強いリーダーの出現を期待しているだけ」と書かれてあるけれど、、モッブはつねに「強い男」、「偉大なリーダー」を請い求めたけれど、、わたしたちこそが、工藤勇一さんを「強い男」にしてしまわないようにという、戒めの本でもありました。
『子どもたちに民主主義を教えよう』一冊で民主主義を知ることをやめる必要はなく、ラッキーなことに、本書には、ヘーゲルやルソー、アーレント、宇野重吉の書籍なども紹介されています。民主主義の名著はほかにもたくさんあります。問題点を批判する知性があれば、「強い男」は請いません。
イベント情報
本書の刊行を記念して、各所でイベントが開催されています。
2022年11月18日(金)開催の「『子どもたちに民主主義を教えよう』刊行記念トークイベント 鴻上尚史×工藤勇一×苫野一徳「多様性の時代を生き抜く力を育む教育とは」」(SPBS TORANOMON主催)は、本書の著者である工藤勇一さんと苫野一徳さん、それから過去に工藤さんとの共著『学校ってなんだ! 日本の教育はなぜ息苦しいのか』が刊行されている鴻上尚史さんが出演。
会場参加はすでに満席となっているようですが、オンライン参加(アーカイブあり)はまだ可能とのことです。
くわしくはこちら https://www.shibuyabooks.co.jp/event/9198/ をご覧ください。
※このイベントは終了しました。