憲法26条「教育を受ける権利」のおかしさを通して教育を考える(前編)

「教育を受ける権利」を示す日本国憲法26条、すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する

でもよくよく考えると、「教育を受ける権利」ってなんなんだ?
憲法において、「〜を受ける権利」ってなんだかおかしくない?

そんな疑問から読んだ、日本の職業訓練学者、職業訓練大学校名誉教授・田中萬年さんの著書『奇妙な日本語「教育を受ける権利」誕生・信奉と問題』を中心に、
憲法の条文として「教育を受ける権利」はふさわしいのか、そもそも教育がどう定義されているのか、この条文がどのように制定されてきたのか、などなどを遡りつつ、教育のありかたを考えてみたいと思います。

そもそも憲法って何だろう?

憲法って何なのか? はじめに簡単に見直してみますね。

憲法とは、国民の権利や自由(基本的人権)をまもるために、国家がやるべきことと、やってはいけないことを、国民が定めた決まり(最高法規)です。

国民がつくった憲法は、法律ではありません(法律は国会がつくったもの)。

憲法は、国民の基本的人権をまもる。これが憲法の役割です(憲法97条)
人権をまもる、そんなすごい役割だから常に最強でなくちゃいけなくて、よって憲法は、国家の法秩序のなかで最高法規となっています(憲法98条)。

憲法は最高法規であり、憲法に反する法律やその他の法令は無効と定められている(違憲かどうかは裁判所が判断)

戦後にできた憲法は「日本国憲法」といい、「日本国」を省略して単に「憲法」と呼ばれることが多いです(この記事も省略して「憲法」と書いています)。
明治から戦前まであった憲法は「大日本帝国憲法」で、「明治憲法」ともいいます。
日本国憲法の主権者は国民 で、大日本帝国憲法(明治憲法)は天皇が主権者でした。

憲法26条「教育を受ける権利」が指す「教育」を見ていくまえに

憲法26条の「教育を受ける権利」の条文における「教育」という言葉の定義については、この記事の後半で確認します。

「教育」という言葉の意味は誰もがふんわりと共有していますが、これが指すものは、個人が(それこそ憲法でいわれているような)さまざまな価値観を尊重する・尊重された生き方、自由な精神、自由な活動を自ら確保できる生活の保障のために必要なもの。

そうした意味での「教育」の大切さや役割は、「学校に行かないと大人になれない」「教育は選ぶもの、選べるもの」といった意味では収まりません。

この記事では、憲法26条の「教育を受ける権利」の条文における「教育」を見ていくことで、憲法の大切さと、この憲法26条のおかしさ、広義の教育を、教育のありかたを、いまいちど考えてみたいと思っています。

「教育を受ける権利」ってなんかおかしい?

上記の意味での教育が必要なのは前提として、じゃあ「教育を受ける権利」ってなんだろう
国民のものである憲法において、《「教育」を「受ける」「権利」がある》って、なんだか日本語としておかしくない?

だって、「教育を受ける」だと受け身じゃないですか。
受動態の「教育を受ける」が正しいのであれば、「教育を受ける」が示すその教育は、教育するという意味になってしまいます。教育=教育する ということになります。

教育するをする人がいて、教育されるわたしたちはその教育を受けるってこと? その権利があるってこと?
いっそ「教育を受ける義務」のほうが(そんなのぜったいイヤだけど)文章としては違和感のない気がします。


どうして、「教育を受ける権利」という文章がおかしく感じられるのか?

日本の職業訓練学者、職業訓練大学校名誉教授である田中萬年さんの著書『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』には、こうあります。

 問題は、「教育を受ける」前提であれば、上の図のような構造に変化は無く、そのことを権利と言えど義務の時と同じ状態が生じることが分かります。「権利」をつけても、「教育を受ける」場合は主権在民は意味が無く、その関係は図の関係となります。つまり、「教育を受ける」とすれば教育の実施者・権限者はトップの政府だからです。「教育を受ける権利」は”与えられた教育を鵜呑みすることが権利” となりますが、その内実は「教育を受ける義務」と同じです。このように、義務を権利として「教育を受ける権利」が民主的だとするのは「権利」の言葉に呪縛されていた誤解があることが分かります。
 つまり、「教育を受ける」という論理に問題があることが分かります。さらに言えば、「教育する」は他動詞であるため、教育は担当する者と受ける者がおり、国民は受ける者の立場です。(中略)

 「権利」とは “何を” 選ぶかが重要ですが、政府が定めた教育は国民が「自己のために要望した」ものではないことが明らかです。政府は国民が選挙で作っているとしても政府が行う教育は一人一人の国民の要望ではあり得ません。前提のない、要求していないことを「受ける」ことは権利ではありません。給食と同じです。
 今日は主権在民の時代です。国民が主人公であり、権利構造は明治時代とは逆の筈です。(中略)
 教育と学習は、権利関係の上が政府か国民かの違いであり、政府の役割は国民に押しつけるのではなく、学習の材料を準備し、学習が好ましく進むように支援する「学習支援」であることが分かります。
 人権としての「知る権利」はこれまでも度々議論されていますが、それに比べ「学ぶ権利」の主張が極めて弱いのは、「教育を受ける権利」が民主的だというように呪縛されているためと思われます。

『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』p.39-41

本書で問題とする「奇妙な日本語」は誰もが知っている、しかし、誰も疑わなかった言葉であり、「日本国憲法」に存在している「教育を受ける権利」です。
 日本国民は教育を受けてきました。そのため、「教育」を知らない人はいません。そのためか「教育を受ける権利」を疑う人はいませんでした。そして、専門家である戦後の教育学者・研究者は「教育を受ける権利」を前提として研究を蓄積してきました。このため、「教育を受ける権利」への批判は寡聞にして知りません。

『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』p.4

そして田中さんと同じく、かねてから日本国憲法26条の「教育を受ける権利」が受動態でおかしいと思っていた読者・Nさんから届いたメールの一部を紹介し、続けて、ある学生さんの話があります。

学生さんはこう言います。

学校教育を12年受けてきて良く言われることに受け身ではなくて考えろということがある。しかし、「教育を受ける権利」を忠実に実行すれば100%受け身となる。そう考えると矛盾していると考えてしまう。「考える人間」を育てたいと日本が思うなら今一度この制度について議論が必要なのではないか?

『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』p.5


これ、まったくその通りだとわたしも思います。
教育する、という意味の「教育」を受ける権利でもって、こどもたち個々人の個性を圧するようなやり方で、同年齢のこどもたちだけの(おとなは先生ただ一人だけの)教室で、画一的な一斉教育をしておきながら、みんなそれぞれ違う能動的な人になれ、は違うだろって。

「考える力を…」なんていいながら、「正解」ははじめから用意されているし、ちょっとしたミスや違いにも嫌な顔をするし、「どうしてそれを考えるんですか? どういう意味があるんですか?」などと聞こうもんならウザがられるし、同調圧力は半端ないしで。

そうやってさんざんと受け身にさせといて、会社員等になったら、今どきの若いモンは/きみは指示待ち人間だ! と言う。自分で考えろ! と言う。そのくせ、なにか斬新なアイデアでも出そうになったら、前例がないから、ほかはやっていないから、と切り捨てる。そんな性質が根強くあります。


田中萬年さんは、この学生さんの感想は極めて本質的だと言い、ここに日本の教育問題の根源があると述べられます。そしてこう続けます。

最近主張されている「生徒主体」とのスローガンや「主体的に関わるように」との ”期待” も同じでしょう。「教育を受ける権利」を前提にしては成り立たない論だと言えます。
 教育への意見は様々にあります。それは教育を全国民が受けているからです。その教育を受けた体験から教育への持論を述べるのは自由であり、権利です。専門家でない者の意見が多すぎる、との批判もありますが、それこそ “戦後教育” が目指していたことに反します。
 しかし、専門家の教育研究者であっても「教育」を前提として、「教育を受ける権利」を守る立場であれば、Nさんや、右の学生のような疑問は出ないでしょう。しかもその「教育」を定義しないで持論を展開されている著作がほとんどであり、教育の専門で無い者が国語辞書の定義を当てはめると理解できないことが多いのです。何故なら、「教育を受ける権利」は、”他人が行う教育を受けさせられる権利” と同じだからです。

『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』p.6

教育を受ける国民がいるということは教育をする者がいることになります。国民が平等の下でどのような国民がどのような国民に教育をする資格があるのでしょうか。それは身分の差があることを前提にしていることになります。幾度も気付く機会があったこの問題を不問にして国民に伏せてきたことに戦後教育学の過ちがあると言えるのです。

『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』p.12


「教育」と「教育を受ける権利」の問題を差し置いたまま、「どういった教育がよいのか」と議論を重ねていっても何も解決しないだけでなく、問題が拡散するばかりだと田中萬年さんは言います。

しかしながら、同時に「教育」と「教育を受ける権利」が守られるのは、「一定の社会的成功者」にとって「現在の教育が望ましく都合が良い」から、と指摘されます。

明治の教育勅語下で主張された「教育を受ける権利」が、戦後の民主的憲法に規定されたことに疑問がもたれなかった、という盲点。
ここに注目されているのが当書で、田中さんが戦後教育学の過失だと考えられている問題点をまとめたものが、平易な文章で書かれています。


なお、奇妙な日本語 「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』の《はじめに》全文、目次、および、大田堯さんの述懐からはじまる《第一編 「教育を受ける権利」の誕生 1.「教育」は明治政府の官製語だった》の一部は、Amazonの試し読みで読むことができます。

日本の法規による「教育」の定義

実は、日本の法規では「教育」の定義をしていないんです。(憲法はもとより、教育基本法も第一条は教育の目的、第二条は教育の目標、第三条は生涯学習の理念、、であって、そもそも教育とはなにか、教育の定義は明記されていません)


事のはじまりは明治維新です。欧米諸国に追いつくため、富国強兵を急ぐ明治新政府。
教育の分野では、欧米で形成されてきた近代教育を、日本に定着させるべく1871年(明治4年)に文部省を新設します。

続いて翌1872年(明治5年)には「学制」(日本最初の学校制度を定めた教育法令)を公布し、国民教育制度をスタートさせました。

直ちに学校制度構想の立案に着手した文部省。
欧米の学校制度をモデルにした学校制度法令の起草にあたり、外国官(現・外務省)翻訳御用掛だった箕作麟祥や、国漢学者の木村正辞などを中心に、教育思想の輸入を急速に進めていきます。

このとき、「 Education 」は、中国の古典にある「教育」と訳されたのでした。
そしてそのまま、「教育」は現在に至ります。

「教育」という言葉は、紀元前4世紀末に中国で活躍した孟子が「得天下英才、而教育之、三楽也」(王の楽しみは3つあり、その3つめは、すぐれた人材を教育して立派な人物にすること)と言ったのがはじまりといわれています。国を強大にしていくために王が家臣を教育することを意味しています。

 「教育」の「
「教」の偏の「孝」は「子が親につかえること」であり、「親が子に指示すること」。旁(つくり)の「攵」はムチの意であり、合わせて「鞭うち」でもって上からの「強制」の意味をもつ。

 「教育」の「
 「𠫓(とつ)」と月を組み合わせた、こどもが頭を下にして生まれおちてくる様子を表した会意文字。このことから、逆さまに生まれて来るこどもを、頭を上にした、真っ当な人間に育て上げる、という意味が込められており、「教」「育」いずれにも、こどもへの強制力をもつ。


百科全書「教導説」の検討 : 箕作鱗祥による「Education」の翻訳(リンク先:CiNii) では、「Education」が「教育」となっていく過程が書かれています。

「Education」は「教育」ではない? 「教育」という言葉の誤り

日本国憲法26条の政府公式英訳は次のとおりです。
Article 26 ”All people shall have the right to receive an equal education correspondent to their ability, as provided by law.



「Education」は「教育」ではない 、と田中萬年さんは言います。

「Education」は本来、学習支援の意味で、「教育」という言葉は明治政府が富国強兵策の一環として使用したもの

「Education」を「教育」としたことにそもそもの問題があった。そして誤訳を定着させたのが「教育勅語だった、と田中さんは言います。

江戸から明治にかけ、庶民のあいだには「きょういく」という概念はなく、明治半ばになっても「きょういく」は「学問」と呼ばれていた そうです。

けれど、「学問」では都合がわるい政府。
あくまでお上により教育が受けられるんだという理解をさせなければならず、「教育勅語」を学校での奉読に義務つけることで、馴染んでいた「学問」から、表現も認識も「教育」へと変えていったのでしょう。

福沢諭吉の「教育」

教育の問題について警鐘を鳴らした福沢諭吉は、明治22年(1889年)の『文明教育論』において、

学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり(……)。https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/50553_37053.html

と述べており、教育の文字は「発育」と称すべき と主張されています。

永六輔の「教育」

永六輔さんは、研究者、作家、ジャーナリスト、政治家、実業家、教師など316名がそれぞれの視点から寄稿した教育をどうするで、

はじめに、「教育」という言葉が良くないですね。教え育てる、という思い上がり、という思い上がった発想が、文部省、ジャーナリズム、岩波書店のこの企画も含めて、満ち満ちています。
まず、「教育」にかわる言葉をつくるべきです。
(中略)
教育は、「上から下」という方向性しかもっていませんね。これでは何ともなりません。そういうわけで、ぼくは教育という言葉には悪い印象を持っているんです。

教育をどうするp.344-345

と述べられています。

大田堯の「教育」

大田堯さんは、著書大田堯自撰集成1 生きることは学ぶこと 教育はアート

学問→教学→教育への転化の中で、教育は欧米のeducation に相当する訳語として定着することになる。education は「子どもや若もの、さらに動物を養育するプロセスとある。」
(中略)
単なる知識やスキルを与えることに対して、諸能力、性格を育て、発達を促すともあり、語源からして drawing out(引き出す)の意味のあることが指摘されている。つまり教よりも育に力点されている。
(中略)
日本語の教育の教に強い力点がおかれていることとは対照的である。education に中国の古典にある「教育」という言葉をあてたことは、現在からみると「誤訳」だったとも云えよう。いずれにせよ、それが近代国家の体裁をととのえる政権すじからの呼びかけによるものであるから、一般庶民にとっては違和感をともなうのは当然であり、外からの外来語、ないし、上からの官製語というべきだろう。

大田堯自撰集成1 生きることは学ぶこと 教育はアートp.299-300

と述べられています。
(大田さんの教育観や活動をテーマにしたドキュメンタリー映画『かすかな光へ』はいまも観ることができます! 『かすかな光へ』の紹介と感想の記事はこちら →『かすかな光へ』大田堯さんが教育を問い続けたドキュメンタリー映画の紹介と感想

池田祥子さんによる『奇妙な日本語「教育を受ける権利」』の批評

田中萬年さんは、こうも言われます。

「教育勅語」の非人権性は明らかであるにもかかわらず、保守的為政者・指導者は「教育勅語」を利用しようとする。が、問題は、「教育勅語」は排除すべきと言う人も、「教育」という言葉を使うことで「教育」を認めることになってしまう。よって「教育勅語」の精神を無意識のうちに許容することになる、と。

このように「教育」という言葉を否定される田中萬年さんにたいし、前こども教育宝仙大学学長・池田祥子さんは、本誌編集委員もつとめられている『現代の理論 DIGITAL』で、『奇妙な日本語「教育を受ける権利」-誕生・信奉と問題-』への批評を書かれています。

田中氏には、言葉そのものも時代の中で、その意味内容が徐々に、あるいは急激に変遷していくことが理解できないのだろうか。

(中略)

日本国憲法や教育基本法の「教育を受ける権利=the right to receive an equal education」自体が問題なのではない。問題は、「教育」総体に対する国民の権利が十分に自覚化され、法定化されていないことなのだと思う。

「教育を受ける権利」の歴史性を考える 田中萬年氏の‟「教育」概念批判”の硬直性

池田祥子さんの論評全文は「教育を受ける権利」の歴史性を考える 田中萬年氏の‟「教育」概念批判”の硬直性 で読むことができます。

池田祥子さんの批判にたいする田中萬年さんの反問はこちら →「教育」と「教育を受ける権利」で誰を、何を護るのか 池田祥子氏の拙著論評への反問

さらに田中萬年さんの反問↑ を受けての池田祥子さんの反論はこちら → 課題としてー「近代(現代)公教育」を批判するための思想と論理 「田中萬年 VS 池田祥子」を超えて



後編では、憲法における「教育を受ける権利」の制定までの確認、そして 教育ってなんだろう? ということを、いまいちど考えています。↓↓↓

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