憲法26条「教育を受ける権利」のおかしさを通して教育を考える(後編)

日本国憲法26条のすべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有するという条文。

国民のものである憲法において、《「教育」を「受ける」「権利」がある》って、なんだか日本語としておかしくない? という疑問から、

そもそも「教育」はどう定義されているのか?
「教育を受ける権利」はどこから来たのか?
「教育を受ける権利」はどう日本国憲法に盛り込まれていくのか?

を見ていく、『憲法26条「教育を受ける権利」のおかしさを通して教育を考える』の後編です。

後編では、憲法における「教育を受ける権利」の制定までの確認、戦後の教育問題の発端は何だったのか、そして教育ってなんだろう? ということを、いまいちど考えてみます。

前編はこちら

「教育を受ける権利」の制定まで

〈戦前〉「教育を受ける義務」の対抗

 今日、国民主権の時代に考えると「教育を受ける権利」は奇妙な日本語だと感じますが、その誕生時には創作される必然があったことが推測されます。その背景を知るためには「教育を受ける権利」が誕生した時代状況を明らかにしなければなりません。
 先に紹介したように、時代は「教育勅語」が渙発され、教育に対する批判が全く困難だったことでした。p57

『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』p.57


奇妙な日本語「教育を受ける権利」-誕生・信奉と問題-では、「教育を受ける権利」という言葉は、戦後の日本国憲法に初めて規定されたのではなく、教育勅語下ですでに主張されていたことが書かれています。

「教育を受ける権利」(戦前はこれを「教受権」と呼ぶ)を言い出したのは、日本の労働運動の草分けであり、多大な功績を残された片山潜さんでした。

大日本帝国憲法(明治憲法)では、教育の義務は「臣民の三大義務」の一つとされていました。片山さんの「教育を受ける権利」の主張は、明治政府が臣民の教化のための「教育」を施す「教育勅語」下で、「教育」を否定できない状況での最大の抵抗だったといいます。

「教育を受ける権利」は、臣民の「教育を受ける義務に対抗して、貧困など就学が困難なこども達のために労働運動のなかで主張されたのでした。

「教受権」論を教育界に広められたのは幸徳秋水さん。大正デモクラシー時には、下中彌三郎さんによって「教育を受ける権利」は普及していきます。

しかし皮肉なことに、「教育を受ける義務」に対抗して教化のための「教育」を容認せざるをえなかった、その「教育」の根本的な問題はベールに覆われたままでした。

「教受権」論は、幸徳秋水さんや下中彌三郎さんといった知識人の主張であったため、「教育を受ける権利」は民主的な主張として広がったそうです。

〈戦後〉マッカーサー草案に「教育を受ける権利」はなかった

1945年(昭和20年)8月14日、ポツダム宣言の受諾以降、マッカーサー草案を原型にした日本国憲法が制定されていきます。

制定されていくにあたって、「教育を受ける権利」は草案にどう盛り込まれていくのか? その結果、どのように日本国憲法に明記されたのか?

まず、政府の草案は内容が保守的すぎるとして、マッカーサーに憲法改正案を拒絶された松本烝治国務大臣。GHQのホイットニーからマッカーサー草案を手渡されます。

※線はわたしが引いています。↓

 先ず、アメリカ憲法には “education” は規定されていないことを知っておく必要があります。
(中略)
 ところが、マッカーサー草案(一九四六(昭和21)年二月十三日)には “education” が規定されました。この意図は一九四五年一〇月一一日、マッカーサーが新任挨拶の首相幣原喜重郎に対し口頭で命じた人権確保の五大改革指令にありました。その内容は婦人解放、労働組合結成奨励、秘密審問司法制度撤廃、経済機構民主化と共に学校教育民主化があったためと思われます。マッカーサー草案に “education” に関する条文を入れたことは、GHQによる日本教育に対する極めて重要な判断であったことが推測されます。つまり、わが国の戦前の学校教育への批判が強かったことを意味しています。

 マッカーサーは日本政府の憲法改正案を拒絶し、ホイットニー等にGHQ草案を一週間で完成せよ、と命じました。
(中略)
 一九四六年二月十日の民生局によって起草されたとされるGHQのマッカーサー草案の教育に関する条文は第二四条の中に次のように規定されました。

 Free,universal and compulsory education school be established.

 日本の「教育」の改革のために “education” を明記したこともGHQの誤解だったといえます。
「教育」は “education” ではないからです。しかし、このことに気付くことはGHQ側は日本人以上に困難であったでしょう。やむを得ない誤解でした。
 なお、マッカーサー草案には現行憲法第二六条第一項の「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」という規定に関しては全く記されていないことが誰にでも分かります。マッカーサー草案になかった「教育を受ける権利」の規定は、従って日本人が書いたと断言できます。

『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』p.99-101


「Free,universal and compulsory education school be established.」を、政府が検討した最初の訳はこうです。
「無償かつ普遍的な強制教育の確立。」

”compulsoly army” は「微兵制」であり、政府が当初 ”compulsoly education” を「強制教育」と訳したことは理解できます。しかし、「教育」の強制というのは受講者を二重に束縛する意味となり、日本語的には強圧的になります。そこで、この ”compulsoly education” を「義務教育」に改訳しました。
(中略)
マッカーサー草案の教育に関する規定は、「日本国憲法」では第二六条第二項の後段、「義務教育は、これを無償とする。」であることがわかります。親の義務では無く政府の業務であることが明らかです。国民の三大義務の一つとして子弟に「教育を受けさせる義務」がある、というのもマッカーサー草案には無い観念でした。

『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』p.102


「教育を受ける」という教育観。この教育観は、いま一度吟味されることもないほど日本人の教育観念に浸透していたため、その観念をもとにマッカーサー草案が検討されることになったのは理解できるところです。

マッカーサー草案の第24条では「有ユル生活範囲二於テ法律ハ社会的福祉、自由、正義及民主主義ノ向上発展ノ為二立案セラルヘシ」とあり、内容があまりにも雑然としていたため、規定を分解整理したいことをGHQに申し入れ、結果、教育の条文が独立したんだそうです。

そうして1946年3月2日に完成した日本国憲法案には、先の松本烝治「憲法改正私案」の「教育ヲ受クルノ権利及義務」から「義務」だけ削除した、「教育ヲ受クル権利」が政府案として入ったのでした。

1946年4月17日、政府は「憲法改正案」を発表し、同日、枢密院に諮詢されます。

日本国憲法改正草案(現行憲法対照)
https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf

日本国憲法の誕生における年表
https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/history03.html

戦後の教育問題の発端

憲法改正案の国会審議過程

天皇臨席の下、枢密院で可決された憲法改正草案は、1946年6月20日、帝国議会に提出されました。

枢密院 … 天皇の最高諮問機関(天皇をサポートする組織みたいなもの)。日本国憲法の施行で1947(昭和22)年に廃止。

帝国議会 … 大日本帝国憲法のもとでの議会(日本国憲法のもとでの議会は「国会」)。帝国議会は二院制で、選挙で選ばれた議員が構成する衆議院と、皇族・華族や高額納税者など、選挙でなく身分の高い人のみでつくられた貴族院からなっていた。日本国憲法施行で華族制度と同時に貴族院も廃止。


奇妙な日本語「教育を受ける権利」』を読むと、「教育を受ける権利」を引き連れた「教育」が、どんなふうに戦後の教育問題の発端となってしまうか、よくわかります。

下↓ の図が示すように、

「憲法改正案」が衆議院に提案される → 直ちに「憲法改正案委員会」を組織し、議論の場が整備される → さらに詳細な審議のために秘密会の「憲法改正案委員小委員会」が組織され、具体的な改正案が議論される → 秘密会で決定した改正案が、小委員会、衆議院で可決され、貴族院に送られる……といった憲法改正案の審議の流れ
『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』p.108

各委員会で議論は展開されるなか、教育に関係する議論はどのような内容であったか、過程はどのようなものだったか。憲法26条の「教育を受ける権利」にスポットを当て、当書は詳しく見ています。

教育に関する審議1 — 衆議院本会議

まず、(上の図の1番目)「衆議院本会議」においては、教育に関する議論は、1946年6月27日・第7回の酒井俊雄議員の質疑のみでした。

酒井議員の発言(発言の全文はこちら)は、格差や貧困問題等も考えなければいけないのではないか、といった「教育を受ける」具体策の対策についてです。
あくまで「教育を受ける権利」前提なんですね。そもそも論として「教育とは?」といった本質を問う根底からの議論はなく、これじゃ教育の定義は生まれてくるわけないよな、と痛感しました。

そして驚くことに、本質を問うものではなく対策について疑義を質している酒井議員の発言にたいして、会議には金森徳次郎国務(憲法担当)大臣と、田中耕太郎国務(文部)大臣が出席しているにもかかわらず、二人とも何ら答えていないことです。他の議員からも関連する質問は出ていません。


この日(第90回帝国議会 衆議院 本会議 第7号 昭和21年6月27日)の議事録はこちら
https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detail?minId=009013242X00719460627&current=1

教育に関する議論2 — 帝国憲法改正案委員会

(上の図の2番目)「衆議院帝国憲法改正案委員会」では、議長の指名による72名が選ばれて審議が開かれました。

議論の多くは、「すべて國民は、法律の定めるところにより、その能力に應じて、ひとしく」の箇所にたいする議論でした。著者の田中萬年さんはこう言われます。
「つまり、「教育を受ける権利」の可能性の保障の問題が関心の中心であったのです。」と。

帝国憲法改正案委員会では、21回の会議のうち、教育に関する議論は6回行われ、うち代表的な議論だったという1946年7月18日・第16回における金森徳次郎憲法担当国務大臣の発言が当書では紹介されています。

ほかにも、第3回、第6回、第14回、第15回、また第16回での金森憲法担当国務大臣以外の方々も意見を述べられているのですが、議員の意見の言い放しがほとんどであって、ここでも質疑応答は行われていませんでした。


第90回帝国議会 衆議院 帝国憲法改正案委員会 第16号 昭和21年7月18日の議事録はこちら
https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detail?minId=009012529X01619460718&current=3

教育に関する議論3 — 秘密会の小委員会

次に、(上の図の3番目)秘密会の「帝国憲法改正案委員小委員会」で、憲法改正案の具体的な条文の審議を行います。
芦田均を委員長とし、委員は14名が選ばれ、計13回の審議が開催されました。うち、教育についての議論は2回です。

この秘密会の小委員会で、1946年7月30日・第5回のおり、廿日出厖委員(日本自由党)は、次のように質問されます。

第二十四條の一項に付きまして能く讀んで見ますと、「すべて國民は、法律の定めるところにより、その能力に應じて、ひとしく教育を受ける權利を有する。」、此の教育と云ふ内容さへ十分突き詰めて此の範圍を法律で決めるならば、今鈴木委員の主張されて居ることが殆ど全面的と言つても宜い位に新しく出來る法律に織込むことが出來るのぢやないかと考へます

https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detail?minId=009012530X00519460730&current=1


これについて、著者の田中さんは言います。(線はわたしが引きました)


(廿日出議員は核心を突いて迫った。)「日本国憲法」の審議で、「教育」の概念を質問したのは廿日出議員のみです。しかしながら、上の質問には閣僚だけではなく政府側委員会は誰も応えず、廿日出も再質問せずに終わりました。さらに、他の出席委員会からの関連質問もありませんでした。この「此の教育と云ふ内容さへ十分突き詰めて此の範圍を法律で決める」ことは、その後の「教育基本法」でも「学校教育法」でも検討されませんでした。
「日本国憲法」制定の議論で「教育」の概念についての確認はなく、そして、今日でもありません。
さらに廿日出議員は次のような発言をしています。

第二十四條で宜いぢやないかと云ふのは、「その能力に應じて、ひとしく」とあつて、「教育」と云ふ範圍は、今言つたやうに國民學校から大學まで、「教育を受ける權利」がある、是は民主的な一切を盛つてある、是はもう社會主義のどなたでも是で結構だと思ひます、私がどう云ふ風な立場であらうと全部認められると思つて居る、私、僅かな條文に付てこんなに詳しく考へたことはない、どうしてかと云ふと、教育に關係して居る私だからである、而も委員會で一口も私は言はなかつた、私が一番言はなかつた、けれども、是だけ旨く表現して居るものは私はないと思ふ、其の通りで宜い、「ひとしく」「教育」「權利」と是だけを僅かの中に盛つてある、だから何も彼も是で宜い、憲法は根本の法ですから、さうして其の上に尚ほ法律を是から定めるのですから、何等差支へないと思ふ

(中略)
秘密会ではほぼ原案が了承され「教育を受ける権利」もそのまま残されました。このことに廿日出厖委員の発言が大きく作用したといえます。
(中略)
保守的な廿日出が「是は民主的な一切を盛つてある、是はもう社會主義のどなたでも是で結構だと思ひます」と述べていることは重要です。社会主義者とは、一ヶ月前の六月二九日に日本共産党が発表した「人民憲法草案」における「教育をうける技能を獲得する機会を保障される」を指していることは明らかです。「教育を受ける権利」は保守主義者からも、社会主義者からも支持されていたと言えます。

『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』p.111-113


このように、国体護持を唱える保守主義者も、天皇制に反対していた共産主義者も変わらずに「教育を受ける権利」について賛同したことが戦後の教育問題の発端だったのです。よりさかのぼれば、戦前と同じ「教育」の概念については何ら検討されないままで発表された憲法改正案が、戦後の教育の根本の問題を決定づけていたことが分かります。

『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』p.113


この日(第90回帝国議会 衆議院 帝国憲法改正案委員小委員会 第5号 昭和21年7月30日)の議事録はこちら
https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detail?minId=009012530X00519460730&current=5

教育に関する議論4 — 貴族院の特別委員会

さきほどの図に見るように、秘密会の小委員会で決定した憲法改正案は、再び帝国憲法改正案委員会にもどって議論され、衆議院に上程される。そうして審議会は貴族院に移ります。

『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』p.108

貴族院でも「帝国憲法改正案特別委員会」が設置され、安倍能成委員長のもと45名の委員で、24回の議論が進められます。
その中の1946年9月19日・第17回目は、憲法第三章の「国民の権利と義務」の逐条審議が行われ、佐々木惣一議員は、教育に関して最も核心的な質問をされるのでした。佐々木惣一議員の質問と、田中耕太郎文部大臣の答弁は以下です。

080○佐々木惣一君 本條の重點は一體どこにあるのでございませうか、總ての國民は教育を受けるの權利を有すると云ふ處に重點があるのですか、「ひとしく教育を受ける」と云ふ處に重點があるのでありますか、それをちよつと御尋ね致します、(中略)此の文句は規定ですから、均しく教育を受けると云ふことが權利の内容になるのか、教育を受けると云ふことが權利の内容になるのかと云ふことがちよつと伺ひたいと思ひます

https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detail?minId=009002531X01719460919&spkNum=80&single


081○國務大臣(田中耕太郎君) 第三章の精神から申しますと「ひとしく」と云ふことに非常に意味があると存じます、併しながら第三章の内容として權利と云ふとを規定して居りますから、權利の方面も矢張り強調してないと云ふことは申し得ない譯であります

https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detail?minId=009002531X01719460919&spkNum=81&single



佐々木惣一議員と田中耕太郎文部大臣の議論について、田中萬年さんはこう述べます。

 田中大臣のとうべんのように「ひとしく」に問題をすり替え、肝心の議論は深まらずに終わります。佐々木の質問は「教育」の言葉の定義に踏み込まねばなりませんが、それはなされませんでした。つまり、佐々木が最後に質問した「教育を受けると云ふことが・・・・・・・・・・・・權利の内容になるのか・・・・・・・・」という極めて重要な論点は深まらないままで終えたのでした。この問題を他の委員も追求しませんでした。この議論のように、戦後の教育論は基本的に突き詰めた議論がありません。このことが今日の教育をめぐる混乱の源ともいえます。
 上のように「ひとしく教育を受ける」に関する議論は、主として教育を「ひとしく受ける・・・・・・・」の考え方をめぐる問題であり、「教育を受ける権利・・・・・・・・」の問題ではなかったことが分かります。

『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』p.116


この日(第90回帝国議会 貴族院 帝国憲法改正案特別委員会 第17号 昭和21年9月19日)の議事録はこちら
https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detail?minId=009002531X01719460919&current=1

教育に関する議論5 — 日本国憲法の可決

憲法改正案は、このあと貴族院での「秘密会の特別小委員会」でも開催されますが、期限がおしていたため衆議院の「秘密会の小委員会」のように集中した議論は行われず、貴族院本会議に戻されます。

そして1946年10月6日、同年6月25日に帝国議会に上程された憲法改正案は、4か月にわたる両議院(衆議院・貴族院)の審議を経て、最終的に可決されました。

そうして憲法改正案は枢密院に再諮詢され、同月29日、枢密院本会議において全会一致で可決。上奏裁可を経て、1946年(昭和21年)11月3日、「日本国憲法」として公布されたのでした。(翌年5月3日施行)

 以上のように国会での議論は「能力に応じてひとしく・・・・」の議論が中心であり、「教育を受ける権利・・・・・・・・」についてではないことが分かります。この理念については廿日出議員がお墨付けを与えたのでした。佐々木が提起した「教育を受けると云ふことが・・・・・・・・・・・・權利の内容になるのか・・・・・・・・・・」という極めて重要な疑問は全く深まらず、今日まで経過してきたのでした。
 その議論の過程で「初等教育」が「義務教育」、および「普通教育」の言葉への変更がなされたに過ぎませんでした。

『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』p.117


帝国議会の本会議・委員会の会議録は、帝国議会会議録検索システムから確認できます。

こどもの「不登校」がきっかけで26条のおかしさに気づく

自分自身こどものころから、「教育ってなんだ?」「学校ってなんだ?」と考えたりもしていたけど、わが子の「不登校」を機に、そのころとは比べものにならない考えっぷりで教育にどっかり関心をもつようになりました。教育関連の本はもとより、憲法や人権の本も読んできました。

その甲斐あってか、学校の先生から登校刺激を受けたり、学校から電話があったり、プリントを取りに学校に来るよう呼び出しがあったりなどの煩わしさもなく、『不登校になって伸びた7つの能力』の「はじめに」で書いたように、親子ともども、不登校をしてよかったと本気で思っている毎日を過ごしていました。

それもこれも憲法26条(ほかにも、憲法13条や18条、25条など)あってのことで、学校や教育委員会等に話をしたりする際に(26条の条文を)よく利用したり、共著の中の拙稿や当ブログで26条の条文を載せてきたりして、言ったり、書いたり、読んだりしてきました。

そんなこんなのある日、「教育を受ける権利」っておかしくないか? と思うようになりました。おかしな日本語じゃないか? 教育を受ける? なんで「受ける」になるん? 憲法において「〜を受ける権利」っておかしいやん? ……と。

それからまた、関連する書籍や文献をさがしては読んでみていました。
けれども書かれてあるのは、「教育権」のことだったり、「教育を受ける自由」であったり、「社会権としての教育を受ける権利」だったり。

田中耕太郎さんが言われた教育も「上から下への「教育する」教育」で、結局のところ「教育する」側と「教育を受ける」側がいて。
宗像誠也さんや勝田守一さん、堀尾輝久さんの本も手にとってみたけれど、「教育への権利」? ますますわからなくなって。
わかったのは、どれも「教育を受ける」は前提になってるんだ、ってことでした。

前川喜平さんが指摘されていた「26条改正案」の問題点も、憲法26条の条文の「教育を受ける権利」はそのままなんですよね。

前川喜平さん曰くの、「将来、国民的な議論の上で改正を行うのであれば、提案したい改正案」は、
「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」は、「すべての個人は、法律の定めるところにより、その個性に応じてひとしく、ともに教育を受ける権利を有する」と改正する。

というものです。
このことが書かれている記事はこちら→ https://toyokeizai.net/articles/-/220823?page=3(自民党の憲法改正案がいかに危険か、ということを述べられています!


で、そんなこんなのある日、出会ったのが田中萬年さんの『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』でした。
「教育を受ける権利」は、「奇妙な日本語」であるにもかかわらず、なぜ「日本国憲法」に規定されたのか。その疑問を、当書は解明していました。

なぜ、「教育を受ける権利」は、日本国憲法に規定されたのか?

なぜ「教育を受ける権利」は、「日本国憲法」に規定されたのか?

「教育を受ける権利」は、「奇妙な日本語」であるにもかかわらず、なぜ「日本国憲法」に規定されたのか?
上述したように、「教育は受けるもの」という考えが、日本人に染み込んでいたから田中さんは言います。

戦後教育の問題を追根究底していくため、「日本国憲法」審議会議録すべてを一文一句読んでいき、古今東西の文献や辞書(日本国語辞典はもとより、英英辞典の『ランダムハウス英和大辞典』や、『ウェブスター辞典』も1806年の初版から1900年の第51版まで)等までも探査される田中さん。

「日本国憲法」審議過程での教育に関する議論が低調であったのはなぜだったのか
『読売新聞』、『朝日新聞』、『毎日新聞』、『東京新聞』、『日本経済新聞』、および『Nippon Times』の各新聞記事を整理した『日本国憲法制定経過目録』の「日本憲法制定関係新聞記事目録」から、その理由を見ていかれます。

昭和二十年一〇月一三日から「日本国憲法」が公布された翌年の十一月四日までのタイトルに国体=天皇制等を記した記事・社説は七十五編あります。(中略)その陰で新聞紙上では教育論に関するタイトルは遂に一度もありません。憲法改正の主たる関心は天皇制の存続であり、教育論はらち外であったことが分かります。
 このように、憲法改正の主たる関心が国体=天皇制の存続にあったことが国会での憲法審議において教育論の議論が低調であった背景だと言えます。そのような状況の中で、「教育される権利」を最初に共産党が提起し、その後、進歩的学者が提案した「教育を受ける権利」が民主的な規定である、というように妄信したのではないでしょうか。政府も「教育を受ける権利」は為政者としても問題ないと理解して憲法改正案に盛り込み、それを保守的政治家も追認し、「日本国憲法」が成立したことが分かります。
 国会での「教育を受ける権利」に関する主たる議論は「ひとしく教育を受ける」であり、「受ける権利」ではありませんでした。このような議論の内容は二重の意味において臣民観を前提としていたと言えます。第一は、「ひとしく」を議論して「教育は受けるもの」を前提にしていたことです。ここに最初から「教育」の言葉が内包する魔性が反映されています。それは日本共産党が「教育される」権利としたことから始まり、誰も気が付きませんでした。第二に、教育を「受ける権利」に関して例外的に佐々木議員が質問した「教育を受けることが権利になるのか」の質問には政府だけで無く誰も応えることはありませんでした。(中略)
「教育を受ける権利」は「国民の権利」からはほど遠い臣民的な含意を持ったまま、提案され、「日本国憲法」に規定されたのでした。(中略)
 このことは「教育勅語」の生きていた下で憲法改正を論じていたことが大きな要因だと思います。「教育勅語」は「日本国憲法」、「教育基本法」が制定された後、一九四八(昭和23)年六月一九日に国会で失効確認が決議されたのでした。それもGHQからの指示を受けてからであり、日本人が為政者を含めて戦前の教育観に染まっていたことの証左でしょう。つまり、「教育勅語」観の下で「教育を受ける権利」を審議していたという奇妙な状況だったのです。

『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』p.118-120

堀尾輝久の「教育権」論への批判

研究は真実の追究です、と言われる田中さん。当書は堀尾輝久さんの「教育権」論の批判も載っているのですが、教育について考えている方や、教育学の勉強をされている方などは、この箇所も読まれるといいかもです。

わたしは机の上に、読み終えた『奇妙な日本語「教育を受ける権利」』と、堀尾輝久著『現代教育の思考と構造』『教育基本法をどう読むか』、この3冊をひろげながら堀尾さんの本を再読することで、巧みなレトリックを知ることができました。



なぜ、田中さんは、堀尾輝久さんの「教育権」論を批判されるのか?
現代の理論 DIGITAL』や当書で、次のように述べられています。

「教育を受ける権利」論が堀尾の代表的論理であるだけでなく、日本教育界の前提になっていると考えたからであった。「教育を受ける権利」と「教育への権利」では天動説と地動説ほどの差異があるが、そのような異論を同じ研究者が主張していることに驚いた。(中略)

 今日、何故に堀尾論を批判する必要があるのか。それは堀尾が「教育を受ける権利」論を体系化した第一人者であり、教育学界での影響が大きく、誰も堀尾を批判しないからである。これではわが国の教育論はいつまでも国際的潮流から離れた孤島の論に終わろう。このままでは日本の為政者が進める教育の暴走に巻き込まれるだけであり、それを改革する「人間発達支援策」の検討が困難であると考えるからである。

迷走する「教育を受ける権利」論 – 現代の倫理 DIGITAL
http://gendainoriron.jp/vol.02/rostrum/ro03.php


(※はわたしが入れました↓)

 以上のような堀尾氏が主張する教育に関する論理では、国民の爲の論理にならないのは明らかです。なぜなら、自民党の憲法改正案は「教育を受ける権利」の訂正がないからです。「教育を受ける権利」を否定しない堀尾氏の論と自民党の憲法改正案とはどう違うのか第三者には理解できないでしょう。教育のブラック性を否定せずホワイトに転換することは論理的にも困難なことは明白です。
 ところで、堀尾氏の学会運営に関する批判は有りますが、氏の「教育権」論に付いての批判は寡聞にして知りません。しかしながら、堀尾論を賛美する評は少なくありません。
 例えば、鈴木祥蔵氏は『構造』(※『現代教育の思考と構造』)の書評で、「この書は、わがくに教育学界における最近のもっとも注目すべき労作の一つといっていいであろう.」。

(中略)

高名な鈴木氏から右のように評価されると、教育界の他の研究者からの批判は出にくいのではないでしょうか。教育学界で批判が無ければ、国民もまた堀尾「教育権」論に間違いは無いと思うでしょう。このようにして、堀尾氏の教育界での権威が確立したと言えます。
 堀尾氏の「教育権」に関する “精緻な論” は「教育」と「教育を受ける権利」を是認しての「通読」では見破れず、教育学界で認められ不動の地位を確立しました。それは、「教育を受ける権利」を否定しないという、憲法を守る政治立場が支持されたからだと言えます。しかしながら、一人ひとりの国民の発達と能力の開発に関する論理の構築にとっては甚だしい誤認をもたらし、教育改革の根本を見失わせたと言えます。つまり、教育についての堀尾氏の論は、小田嶋隆氏が述べるように、本質を解説せず、検証できない、民心が期待する言葉で、造語を言い放し、誤魔化していると言えるのです。
 この理由の根本は、やはり堀尾氏が「教育」の定義をしていないことにあります。憲法や法律も定義していないため、自民党はどんどんと教育を明治化・”官軍” 化させているのです。

『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』p.162-164

教育ってなんだろね

教育を定義していないがため、それをいいことに、自民党はどんどんと教育を明治化・”官軍” 化させている。。。ほんとそう思います。教育が政権の道具にされています。

憲法改正は、仮に26条は現行のままであったとしても断固反対だけど、新設された26条3項は削除されることはなさそうですね。3項の条文案では「国家のため」の教育になってしまいます。「教育勅語」を読まされていた塚本幼稚園のこどもたちを思い起こしてしまいます。

国民の権利とは受けることではなく、学問の自由(憲法23条)同様に、26条は個人が学びたいことを学ぶ・学び合う権利(学習の権利)であると思う。しかしながら現状でさえ、教育は「教育を受ける権利」のもと「教育」を受けさせられています。

「教育」を国語辞典で引くと…

「教育」を日本語国語辞典で引くと、「教育」の意味は、『広辞苑(第七版)では、教え育てること。望ましい知識・技能・規範などの学習を促進する意図的な働きかけの諸活動。という語釈になっています。

なお、「学習指導要領」が国定化した1958(昭和33)年の後に発行された第二版から第六版が発行される2008(平成20)年までの『広辞苑』(第二版〜第五版)による語釈は、教え育てること。 人を教えて知能をつけること。 人間に他から意図を持って働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動。となっていました。


左寄りでも右寄りでもないといわれる『大辞林(第四版)でも、教育とは、他人に対して意図的な働きかけを行うことによって、その人間を望ましい方向へ変化させること。とあります。

(余談ですが、国語辞書を利用するにあたって、『「広辞苑」の罠(水野靖夫 著)や『広辞苑の嘘(谷沢永一・渡部昇一 共著)の一読は参考になるかもしれません^^)

「意図的な働きかけ」によって「望ましい姿に」「教え育てる」

そりゃ「きょういく」がこんなじゃ、「3つの不登校」はどれもふえて当然だし、「いじめ」はなくならないのが自然だよなっておもう。

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「不登校」を3つに分けて考える
学校に行けない・行かない・行きたくない子どもたちには個々の環境があって、理由があって、求めるものがある。それらを踏みにじらないためにも、ひとまずは「不登校」を3つに分けて考えてみます。

加えて、国や多くのおとなは問題視しないけれど、従順さや忍従さなど、まじめで、おとなしくて、素直で、、といった学校適応過剰や、強迫的登校もまた大問題なのになっておもいます。


これがよい、こうなるのがよい、と 教育するをする 誰かの意図が前提にある学校教育。
「鳴くまで待とうホトトギス」「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」じゃないけれど、為政者や教育学者たちの考えは多種多様で、果てしない論争や対立が続いています。

「ゆとり教育」もそうだっただろうし、「アクティブ・ラーニング」や「SDGs教育」、金融教育の必要性が問われた2000年からは「金融経済教育」の是非やあり方をめぐる議論もしかりでしょう。

しかしながら、経験主義の考え方なのか、系統主義の考え方なのか、社会中心主義の考え方なのか……。どのような考え方なのか、どの立場に立つかによって、カリキュラムや教育方法の考え方は違ってきますが、仮に「鳴くまで待とうホトトギス」だったとしても、内容は、魚にも木登りを させる ことだったり、猫にも泳が せる ことだったり。「アクティブ・ラーニング」も能動的に させる んですよね。


前々回の記事でご紹介した工藤勇一さんと苫野一徳さんの対談本でも、こどもたちにたいして、使役動詞である「〜させる」や「させてあげる」の言い回しが多用されていたけれど、あの手、この手の させる 方法でもって、意図的に働きかけ、望ましい姿に教え育てていくか、ってことなんでしょう。しかも一斉に。もちろん、いずれにも評価はベッタリくっついてきます。

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子どもを「自由にさせる」とき、親も自分自身を「自由にさせている」
なにかを「させたい」人が、なにかを「させる」人になる。そして、させられることのたいていは、させる人の利益や得になる。
こどもとの暮らしでは、「勉強させる」をはじめ、「手伝わせる」「我慢させる」「食べさせる」「挨拶させる」「遊ばせる」「決めさせる」「自由にさせる」……といった数々の「させる」を耳にします。

憲法の根幹をなす「個人の尊厳」と「学習の権利」

こどもたちを「教育してやろう」、こどもたちは「教育を受ける者だ」という観念が根づいています
1872年(明治5年)の「学制」が、戦後も今も「公教育=国民教育制度」として、国家権力の弾圧のもと横たわったままなんでしょうね。

現在の公教育は、こどもたち一人ひとりの育ち、学びを保障はしないし、今のシステム(今の民主政治)では保証はできません。
education」が「”教育する” 教育」のままでは、憲法の根幹をなす「個人の尊厳」(=個人の尊重=憲法13条)を守ることはできません。

田中萬年さんは言われます。

「教育」は教育を施す立場から受ける者を集団的に指導することであり、個性の尊重とは反することを求めているのです。個性とはもって生まれたものであり、当然一人ひとり異なります。異なるから個性です。その個性を更に伸ばすためには集団的な一斉的な教育では不可能です。それは一人ひとりの発達する方向、開発する方法が異なるはずです。その可能性は個別学習支援によってのみ保証できるでしょう。

『奇妙な日本語「教育を受ける権利」 誕生・信奉と問題』p.173


どういった教育がよいのか。。。
議論を重ねていっても、「教育」の解釈、ならびに憲法26条「教育を受ける権利」の解釈を一致させなければ、議論はスタート時点からズレてしまいます


こういう教育がいいとか、ああいう教育がいいとか、これは時代遅れで、次はあれやこれや……とか言う前に、

「教育」を定義せずに教育を改革できるはずはないこと、
わたしたちのほとんどが「きょういく」がなんなのかよくわかっていないこと、
「教育する」という発想から「教育とはなにか」を考えていること、
「(教育)する」=「させる」が前提になっていること、

などを自覚し、学習の権利を奪わず、教育について話すとき(や考えるとき)、その教育のなかにいろいろ含まれたままになっている現状をそれぞれ紐解く、とまではいかなくても、せめて意識くらいはしておきたい。

教育が「する側」のためのものではないのは確かなのです。

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