子どもを「自由にさせる」とき、親も自分自身を「自由にさせている」

こんにちは、
AI-am(アイアム)の星山海琳です。

こどもとの暮らしでは、「勉強させる」をはじめ、「手伝わせる」「我慢させる」「食べさせる」「挨拶させる」「遊ばせる」「決めさせる」「自由にさせる」……といった数々の「させる」を耳にします。

正反対のように聞こえる「勉強させる」と「自由にさせる」の違い(違わなさ)と、
こどもを「自由に“させる”」親が、自分自身をも「自由に“させている”」ことについて。

勉強させる、手伝わせる、我慢させる、遊ばせる、etc ……

使役動詞である「させる」は、相手の言動を強制・指示する、仕向ける、といった意味で、こどもとの暮らしでよく聞くのは「勉強させる」とか、「手伝わせる」「我慢させる」「食べさせる」「挨拶させる」「遊ばせる」「決めさせる」とか、とか……。


こどもになにか「させる」とき、本人はやりたがってはいない(というかやりたくない)けれども、親や先生といった第三者がそれを強いる、という構図が生まれる。

「勉強させる・させられる」それ自体がいいことだとはわたしは思わないけれど、この構図に救いがあるのは、当事者の誰もが構図に気づいていることだと思う。
「させたい」人と、それによって「させられる」人がいる、という構図のこと。

使役動詞のタテの関係については、こちらの勉強会でも触れています

「させる」と「させられる」

なにかを「させたい」人が、なにかを「させる」人になる。そして、させられることのたいていは、させる人の利益や得になる。

ちょっとしたパシリのようなヘルプや手伝いは自分を助けるものだし、こどもが行儀よくご近所さんに挨拶すれば親はよい評価を得る。
こどもが友だちを思いやり献身的に接すれば親は満足し、悪いことをしたこどもに罰を与えてちょっとしおらしくなれば大人は気分が晴れる。

本人にはまだ意義のわからないものや、いまいち理由の見つけられないものを「させて」よい、というよりむしろ「させる」からこそ価値があるのは、師弟関係にある人たちくらいのものじゃないかと思う。

でも、もちろん、親と子どもは師弟ではない
仮に親は師になりたがったとしても、師弟関係はそもそも両者の同意なく結べる関係でさえない。

「勉強させる」と「自由にさせる」の違い

先日いただいたご質問、「動画三昧の日々が続くと、飽きた時に何かに向かって動き出す、という話をよく聞きますが、本当にその時は訪れますか?」に関連して考えてみると(前回掲載させていただいたのはご質問の一部で、今回考えているのはその前後のご質問内容からです。概要のみとなりますがあしからず)

学校に行っていない子どもの過ごし方については自由にさせていて、それを第三者から否定的に指摘されたことで不安になり、少し勉強させてみたけれども、やはりこれでは意味がないと思い勉強をさせるのをやめた。

そんな場合において、「自由にさせる」ことと「勉強させる」ことの間にある違いが、わたしの気になるところです。というか、違わないのが気になるところです。


「勉強させる」は構図としてわかりやすいと言ったけれど、「手伝わせる」「我慢させる」も同様にわかりやすいほうです。
対して構図がわかりづらくなるのは、「遊ばせる」や「決めさせる」。「自由にさせる」もそうです。

自由は、なんにもしなくていいこと?

自由って、やりたくないことをなんにもしなくていいことでしょうか。それとも、なんでもしていいことでしょうか?

本来、「なんにもしない」や「やりたくないこと」は、「なんでもしていい」に含まれます。でも先に書いたとおり、わざわざ自由に「させる」側には、相手を自由に「させたい」という思いがあるわけです。

つまり、「させる」時点でそこにはなんらかの意思や目的があって、その現れに選ばれたものが「自由」だったにすぎない


勉強だって早寝早起きだってお行儀だって、ほんとうに純粋にそれ自体を目的にして口を酸っぱくする親は、あんまりいません。
親がほんとうに心からそれそのものを大切にしているなら、それはこどもにも純粋な形のままで伝わります。

こどもを「どう育てるべきか」という考えにもとづいて親は勉強を「させたり」自由に「させたり」叱らずに怒ろうとか、命令じゃなく提案をしてみようとかいうんだけれど、どんなやり方であろうと、大した違いはないんです。
こどもとの関わりが「どう育てるべきか」にもとづいていること、それがすべてです。

親も自分自身を「自由に“させている”」

親が、こどもを「愛する」ではなく、わざわざ「自由に“させる”」をするのは、親も、親である自分自身を「自由に“させている”」ということなんだと思います。

こどもの年齢も、思春期や反抗期、成人などそれなりに大きくなって、親が「もううちは自由にさしてますねん」「もう好きにさせることにしましたわ」みたいに言うのを聞きますよね。

おそらく、これがごく一般的なタイミングと作業です。
親もこどもとともに育ち、やがてもう自分の意思とこどもの意思をひとつに結び続けてはいられないことを直感して、手綱を手放す。それは一種のあきらめです。

言葉としては自由に「させる」をしていても、ここでは自分の意思にこどもを沿わせているのではなく、こどもの意思に無理に沿っているのでもありません。


でも、親も親である自分自身を「自由に“させている”」とき、親の自由とこどもの自由はまったく同じ形に結びつけられています

「親の考えるやりたくないことをしなくていい自由」を「させる」というのは、二重、三重の不自由にほかなりません。
手綱をカラフルで楽しそうな色で塗ってみても、手綱は手綱ですし、こどもを騙して「自由」を誤らせるという意味では、むしろやっかいなくらいです。


怒らないようにするとか、挨拶をさせることをやめるとかいったことは、それだけでは大した意味はありません。「してもいい」という意味ではなく、子育ての方針や方法に、大それた価値はないはずだからです。

親や先生、まわりの大人に怒られて叱られて、挨拶させられて勉強させられて、言うことを聞かされてきた人たちみんながみんなどうしようもなく人生に失望していて自分の考えを持っていないかというと、そんなことはありえない。

もちろん、親がすぐ感情的になったり、勝手なことを言いすぎだったり、過剰に放任していたり過干渉だったりすることが、こどもにとってなんの影響もないとは思いません。

ないに越したことのなかったものは山ほどあって、あればよかったものも星の数ほどある。でも、健全さというのは優しさでできているわけではない。
あなたとわたしの間にどんな関係があるか、どんなものが横たわっているか、それが親と子の暮らし形づくるのだと思います。

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