「理解のある親」もほどほどに

親子関係は、すっかり優しくなってしまった。

「やさしさ」は人が人に対してもてる態度として最良のもののひとつだけれど、優しい関係、優しい世界、優しい物語、などなどは必ずしも「やさしさ」を孕んだものではない。

やさしさは、理解や共感、受容とも似た境遇にある。それ自体がいまのわたしたちにとって価値を持っていることは明らかなのに、「理解がある」「共感する」「受け入れる」という行動に変わったとたん、むしろ振り払わずにはいられない。

理解のある人、理解のある親

こどもに対して理解のある親、共感じょうずな親、受け入れる親、それらが増えたのは、人びとの性質の変容というより、それらを満たす人をヨイショする世の中の風潮によるものだと思う。

「親である前に人」などと言うけれど(それはそれで当然として、そこに含まれる過剰さを避けたくてわたしは「人であり親であり子である」のだと思っていますが)、その時代に応じた好評な人物像と、好評な親像というのは、ところどころ一致する。
理解のある人、共感じょうずな人、受け入れる人が「よい人」であるように、理解のある親、共感じょうずな親、受け入れる親が「よい親」。そういうことになっている

好評な人物像はすこしずつ移ろう。
自分らしくなどと口にするのも「自分らしさ」がウケる時代だから、というわけで、良くも悪くも、人は大して変わっていないし、社会の変化だって、いつも必ずしも正しく進んでいるわけじゃない。

大なり小なり社会的な存在であるわたしたちが、好評な人物像をそれなりに身につけてやり過ごしているなかで、理解や共感、受容をうまく「やる」ために手っ取り早い方法のひとつは、ハードルを下げること。だって、人が人を「理解」し「共感」するなんて、ほとんど稀なことですからね。

9の理解を捨てて、「理解のある人」になる

ハードルを下げること、それは基準を易しくすることだ。たとえば10の理解をもってようやく「わかる」と言えていた事柄があるとすれば、1の理解をもって「わかる」と言えるようにすること。
そうすれば理解のある人に近づける。理解者としてのふるまいを身につける。そして、その過程で退けられた9の理解が、希薄さの層を厚くしていく。

わからないよ、おかしいよ、と突っぱねあうよりはまだまし、と思える部分もある。1であったとしてもまったくわからないわけではないのだし、理解者の存在はいつでも心強いものでもある。
ましてや友人知人の関係であれば、失われた9の希薄さによってちょっとした孤独にさいなまれても、まあ、自分たちそれぞれで悩んだりして、悶々としながらも、それなりの距離感で付き合っていける問題かもしれない。

けれど、親と子の関係においては、これはけっこう深い問題になると思う。
(親と子といっても幼い子どもの場合で、いまそれなりの年月を重ねた親と子ならばそれぞれに悩んで試みていけるんじゃないかという話にも戻るのだけど、幼い子どもだと、そうはいかないんですよね。)

「親である前に人」、というならば、「よい人」であろうとしながら(ありながら)「悪い親」になるのは、むしろむずかしい。「よい人」はやはり「よい親」になろうとしがちで、そのためには結果として9の理解を捨てることをも惜しまない、そんな姿をよく見てしまう。
人でも親でも、その時々で「よい」とされるものは実際のところ、「よりよい」というより、「無難」という意味に近くもあるんですよね。

「よい親」にも「わるい親」にもなれない

無難はひとつの美徳だけれど、こどもにとっても無難な親、良くも悪くも影響を与えない親であろうとするなら、美徳どころではないと思う。

親はとにかくこどもに影響を与えるもの、というのはもうほとんど周知の事実になっていて、毒親とかいう言葉も当たり前に使われるようになり、こどもの問題にかんする責任・原因・理由を親に見る傾向は、かなり強い。

もちろん虐待とか暴力が許されるわけでは決してないし、こどもの言動や心の根にはたいてい親の存在があるし、もはやテンプレのように扱われる「親の愛に飢えたこどもが非行をはたらく」というのも依然として事実ではあるけれども(もちろんすべての非行がそうではないし、すべての親の愛に飢えたこどもがそうなのでもない)、状況によってはこどもの存在をまるっと無視した、しょうもない見方だと思う。

おそらく誰でも、「わるい人」や「わるい親」になりたいわけじゃない
けれど、人が善行をしながら悪行をはたらいているように、親が親自身の意思でこどもにとって明確に「よい親」あるいは「わるい親」になることなんてできない

「よい人」は「わるい人」でもあるように(同時にどちらでもないように)、ましてやこどもと接する親であればなおさら、無難になることなんてほとんど不可能で、影響を与えないこともできない。

否応なしに、こどもは親を見抜いて、関わりあう。
だから、やさしく「理解してあげる/くれる」「共感してあげる/くれる」「受け入れてあげる/くれる」よりも、よくもわるくもある人であり親であり、よくもわるくもある人であり子であるわたしたちの、混沌とした天然さを抱き続けたいと思う。

ま、無難を心がけてもけっきょくは色のひとつでしかなくて、ほんとの無難なんてなかなかありえないんですが。

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