こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山まりん です。
世の中にはいくつも信仰があって、それが正しく救いになっていることもあれば、それによって苦しむこともある。
学校信仰もそのひとつで(これはどちらかといえば後者)、それから、わたしがむかしからきらいな信仰のひとつに、「前向き信仰」がある。
前向きであることを善とすること
わたしは、前も後ろもポジもネガもない、と思っているような人間だから、前向きとか、ポジティブと形容されるようなひとのことも、特にきらいじゃない(接しやすいのも確かだし)。
どちらかといえばわたし自身も、「ネガティブだね」よりは「ポジティブだね」と言われることのほうが圧倒的に多い。
思わず身を引くのは、「前向き信仰」にふれるとき。
「前向き信仰」っていうのは、そのまま、前向きであることやポジティブであることを善とすること。
同時にそれ以外は悪となってしまうし、つまり、後ろ向きやネガティブなんかは改善すべき状態と捉える。
しかも、前を向くのは早ければ早いほどいい、そういう風潮がついてくる。
なにかを善とすることは、ときどき危険をともなう。
ものごとをはたと考えたり、うろちょろしていろんな角度から眺めたり、立ち止まる瞬間を失いがちになるということ。
正解と決めつけているものがあったら、不正解や、その中間や枠外にあるもののことなんて眼中にもないだろうし、視界の端に入ったところでそれは、「正解以外のもの」にすぎない。
前を向いたらみえなくなるもの
「前向き信仰」のあるところ(「前を向くことが善である」とき)でも、例外なく、なにかが見落とされたまま進んでいく。
なにか問題が起こったときや、悲しいこと、寂しいことがあったとき、するべきことは「前を向くこと」「ポジティブであること」だ、と。
いきなり振り払うこともあれば、なにか発散をしてからということもあるけど、結局それらは「前を向くため」に行っている。
悲しみや寂しさなら、進むところへもいっしょに持っていけばいいし、問題は、なかったことにするとさらに問題が起きる。
問題をなかったことにする、問題ではないと見て見ぬふりをする、あるいはべつの問題や解決にすり替えるのは、ポジティブだとはいえないし、前を向くことでもない。
対象を放置して前を向くってことは、それをよく視ることはできなくなるってことだ。
みえないものなんていくらでもあるのに、自分のところへやってきたものまで見ないふりをするのは、わたしにとっては惜しい。
というか、そもそも、前ってどっちだろう?
太陽のあるほう? でも、夜を進みつづければ朝がくる。
前を向いたまま後退することも前向き?
後ろを向きながら前進していくことは?