こんにちは、AI-am(アイアム)です。
学校に行かないひとの数は増えつづけ、星山海琳が小学生になった17年前よりも、ほんの数年前よりも、うんと多くなりました。
不登校ではいけない、という通念の硬さが徐々にやわらぎ、
「不登校でも大丈夫でしょうか」とか、
「不登校でも大丈夫!」というんだけど、
実際のところ、「不登校」と「大丈夫」をくっつけて考えているときは、大丈夫じゃないと思うんですよ。
行かないひとが多くなるってことは、自分(の子ども)が行かなくなったとき、おなじような行動をとった子どもや親がほかにもいる、と安心する材料にもなるってことです。
安心することはもちろん大切で、理解、共有しあえる仲間もほんとうに大切です。必要といってもいいくらい。
先立って行動をしてきたひとを知るのも、いいことだし、ひとつでも多くの例を知っておくに越したことはありません。
けれどそのためにあらわれる弊害もある。それは「自分で答えをつくる必要がない」というものです。
レンタルでじゅうぶんな知識や情報は、もちろんあります。
立ち読みですませる本、図書館で借りる本、買って手もとに置く本、いろいろあるけど、それらを判断できる・しているのは自分なんですよ。
ましてや「答えをつくる」のは、お金がかかることじゃないしね。
べつに、辿りついた先がオリジナルでなくてもいいんです。
ほんとうにオリジナルなものなんて、この世にはないわけだし。
自分で、辿りつくこと。
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学校に行くことがすべてではないように、学校に行かないことがすべてでもない。
不登校をしていることは確かに可能性にあふれているし、チャンスにもなりうるけれど、「結果」ではないんですよね。
学校に行っていないことは自分で生きていることとイコールなんだ、とは、わたしたちは思いません。
教育を大手に外注しないからこそ、家庭環境、親のありかたは、より大きな意味をもちます。
親と暮らしている子どもはどうしたって、どんなに切り離そうとしても親のありかたを学び、それに馴染んでいく。
だからこそ、借りてきた言葉や思想を多用したり、それが自分の言葉や思想だと思想だと思いこんだり、探したり見つけたりすることを忘れる、そういうことには、とびきりの注意をはらいたい。
だって、わたしたちはそういう教育を、社会を、家庭を抜けていく、いきたいわけで。
このたび、『 小さな天才の育て方・育ち方 – 小・中・高に通わず大学へ行った話 』は6刷になりました。
ほんとうに、みなさんのおかげです。ほんとうに、すごいことです。
こんなふうにちいさな発信を見つけてくださる方たちがいること、希望だと思っています。
心から感謝しています。
ありがとう。
どうぞ、これからもよろしくお願いします!
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