昨今よく耳にするようになった「多様な学び」。これって、よくよく考えると不思議な響きです。
そもそも「多様」とは、そもそも「学び」とはなんだろう? じゃあ「多様な学び」ってどういうことなんだろう? という地点から考えなおしてみます。
それは、こどもが不登校をしていることから生じる親の不安を、こどもに担がせるのではなく自分自身で扱うためにも、大切なポイントのひとつだと思います。
三重県津市で開催されたお話会で、時間の関係でお話できなかったことをこの記事でまとめています。
もくじ
「多様」とは?
「多様」は、ここ数年、社会でとくに重視されているもののひとつです。
もちろん特定の属性や傾向を排除しないというのは大切なことですし、それらは優劣をつけるような事柄でないのも、当然です。
それは大前提として、そもそも現実は多様です。
「多様」という言葉でもって拾われるようになったものはどれも、誰かに認めたり認められなかったりするようなものではないですよね。認められてはじめて多様への仲間入りをするわけではなくて、誰もが認めなくても、多様であることに変わりはない。
社会的な課題や目標として設定されがちな「多様」ですが、あくまで現実を描写する言葉でしかありません。
ケチンボおばちゃん
たとえば目の前に5人のこどもがいて、飴を一人に一つずつあげた場合、受け取った5人の感想はそれぞれ異なるはずです。
Aさんは「あのおばちゃん優しいな、気前ええな!」と思ったり言ったりする。
それで、もし親がそれを聞いたら、たいていは咎めずに「そうだね」と言いそうです。まあ、言い方を注意することくらいはあるかも。
あるいは「ちゃんとお礼は言った?」と指摘したり、はたまた「人から物をもらってはいけない」と注意する場合もあるかもしれません。
いずれにせよ、「優しい」や「気前がいい」といったポジティブな感想そのものを否定するケースはあまりないような気がします。
Bさんは「あのおばちゃん、飴ようさん持ってんのに一個しかくれへん。ケチやなあ!」「あの人のこと、今度からケチンボおばちゃんって呼ぼ」と思ったり言ったりする。
多くの親はそうした感想も言い方も咎めて、「ほんまや、ケチンボおばちゃんやな!」と同意することはあまりなさそうです(「自己肯定」を教育しようとしている方は、あえて咎めるということはしないかもしれません)。
また、そうした感想や感覚は、こども自身にとって一生忘れられないものかもしれないし、すぐに忘れ去ってしまうことかもしれません。
手のひらに乗せられる「多様」を作り出す
「多様」はもはや、「普通」の言い換えですらあるように感じます。
あれも普通、これも普通、それも普通、みんな普通だよね、と。
でも「普通」は昨今あまり評判のいい言葉ではありません。どれも同じように取り扱うようでいて、窮屈な感じがするのだと思います。「普通じゃない」をどこかに作り出して、ないはずの「普通」という枠が見えるようになる。
だから、「< 普通 > ってなんだろう」みたいな疑問がふつふつと湧き出てくる。「< 普通 > なんてないよね」みたいな言葉のほうが、むしろ受け入れられやすくなっている状況もあります。
最近の「多様」には、多様を認める側、推進する側、という立ち位置が存在していますが、その立場にとっては、手に負えない本来の「多様」ではなく、ある程度コントロールできる「多様」を作り出しているともいえると思います。
平均や普通の枠を広げていくことは、いいことのようであって、もちろんそういう側面もありますが、一方で本来の混沌を仕切っていくことでもある。
もともとすべてがグレーだったところに、「白」を作り出すことで、「黒」ができていく。
現在の「多様」が、グレー、曖昧さ、複雑さ、わからなさに、ときに耐え、ときに溶けていこう、とする動きでないのは明らかです。
むしろそれらを理解しやすい、扱いやすいものにする言葉として、「多様」は働いているように見えます。
だとすれば、ひとまず大事なのは「多様」を作り出すことではなく、「多様じゃないもの」を捉えている枠を外していくことかもしれません。
「学び」とは?
「学び」ってそもそも妙なんですよね。「学び」なんてものはなくて、「学ぶ」だけがある。
ましてや「学ばせる」なんてなくて、「学ぶ」しかない。
こどもが不登校をするようになると、親は、こどもが何を学んだのかをすごく知りたがります。
一条校ないし学校は、その日その時間こどもがなにを学んだのか、手にとれる形でわかるようにできているんですよね。
でも、一条校に行かなくなるとそれが見えなくなるから、いっそう「学び」に依存してしまう。
目に見える結果や成果、正解、そういうものを握りしめたくて、「今日は何をしたの」と尋ねたり、今日はこんなことしたね、あんなことしたね……という思考や言葉がつくられていく。
学びの美化
実際のところ、学んでいない人はいません。
それが親にとって(ときには本人にとってさえ)目に見えるものか見えないものか、価値のあるものかないものかは別ですし、親に言わなくても、見えるところでなくても、自分自身で言語化や意識することがなくてもです。
だから、こどもの学びがどうこう……というなら、まあなんか学んでるんやな、くらいで別にいいはずなんですが、親はとにかく不安に、臆病にさせられてきているので、安心したくて「学び」を求めてしまう。
不登校をしているこどもに、親や大人がいろんな体験をさせようとしたり、いろんなところに連れて行こうとしたり……ということはよくあります。
それ自体に良いとか悪いとかはないですが(同じ行為でも状況によって良かったり悪かったりもします)、いずれにせよ、そういったことを親がこどもの「学び」に変換してはいけないのだと思います。
親はその一つひとつを押しピンで留めていこうとしてしまいがちだけれど、ただやったこと、ただ遊んだことなんです。
「クッキーを焼くのも勉強」なのはたしかに事実で、人がある時間のなかでなにかしら学んでいないわけはありません。でも、クッキーを焼いているだけなのも事実です。
親がそれを「勉強している」「学びだ」と捉えるほど、こどもはますます親という存在、親の不安に囲いこまれていきます。
多様な学びとは
さて、「多様な学び」ってなんでしょうか。
「多様な学び」という言葉が流通するようになったのは、ここ10年くらいですね。
というのも、もともと「多様な学び」という言葉が使われはじめたのは、「多様な学び保障法を実現する会」とその「子どもの多様な学びの機会を保障する法律」案によるところです。
それが教育機会確保法(義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律)という形で成立して以降、とくに4、5年前くらいからは、不登校をしているこどもの親や、新しいフリースクール、オルタナティブスクールなどでもよく使われるようになったと感じています。
「多様な学び」と「多様な教育」
「多様」と「学び」を分けて考えることで見えてくるように、「多様な学び」という言葉が流通しようとしまいと、そもそも学びは多様です。
もちろん、制度や法律面においてその多様を守ることの重要性から上記のような動きが出てきたのですが、いまこの時点で「多様な学び」という言葉に頼るときは、あくまで「多様な学び」はひとつのパッケージであるということをふまえて利用するべきだと、わたしたちは思っています。
「多様な学び保障法を実現する会」の前身は「『(仮称)オルタナティブ教育法』を実現する会」で、これはNPO法人フリースクール全国ネットワークから独立してできた団体でした。
「(仮称)オルタナティブ教育法」の法案骨子では「多様な学び」の姿はなく、あくまで多様な個人、多様なニーズ、多様な教育に触れられています。
「学び」と「教育」は別の概念ですよね。「学び」はけっして外部から与えられるものではありません。
「多様な教育」よりも、こどもを主軸に置いた「多様な学び」が一般的に理解を示してもらいやすいのは納得できるような気もしますが、いま現在の「多様な学び」という言葉の実態は、ほとんどが「多様な教育」だと思います。
大人の不安にこどもを巻き込まないために
表向きの言葉と実態が異なっているのも、多様な教育を制度的に確保していこうとすることも、それはそれでいいのです。
ただ、言葉と実態のズレや、「多様な学び」がどんなふうに(そもそも多様な)こどもの「学び」を規格化する可能性を持つものかを、「多様な学び」を求めたり用いたりするわたしたち大人は注意していたい。
フリースクールやオルタナティブスクール、ホームスクーリングなどの関係者だけでなくて、こどもといちばん近いところにいる親もまた同じで、前置きなしにこうした概念を内面化せずに、自覚的であることが大切なのだと思います。
それは、道徳的にとか、社会人の責任としてとかではなくて、ただただ、親(大人)の不安に目の前のこどもを巻き込まないために、です。
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