「学校は無理に行かなくてもいい」と不登校の居場所探しをするときの落とし穴

am3

こんにちは、

AI-am(アイアム)の
よっぴー です。

前回の記事『 不登校のからくりを知ると、学校と自由に付き合える! 』で、

こども が、

「学校、休みたい」とか、

「行きたくない」と言い出すようになって、、、

親 は、

「なに言ってんの、行きなさい」なんて言ってしまったりもする時期を経て、

でもね、次第に、

学校に行きたくないと言いつづけるこども、、、

元気がなくなってきたこども、、、

を目の前にして、

そこまでして行かせなくても、、、とおもうようになり、

「不登校」を容認するようになってくる。

  

親の想いは、

「学校は無理に行かなくてもいい」になる。

そして、学校の代わりになる場所をさがしはじめる、へと変化していきます。

↑↑ こんなふうに変わってくることを書きました。

でね、この、

「学校は無理に行かなくてもいい」になる。

そして、学校の代わりになる場所をさがしはじめる、へと変化していく。

の、この地点は、

人生観が180度かわるといっても大げさではないほどの、とーーーっても、とーーーーーっても重要な地点 だとおもうんですね。

前回の記事『 不登校のからくりを知ると、学校と自由に付き合える! 』は、この地点から、「学校」にライトをあてて書きました。


➖ 学校に行けないこどもが問題なんじゃなくって、学校の制度に問題があるんだ。
教育機会確保法は、不登校をするこどもの心(いのち)を、法律化することで逃げ道をふさぐ多様なき教育機会確保法じゃないか、ということを書いた。➖

そのうえで、この教育機会確保法を、こんなふうにうまいこと利用できるのでは、と書いた記事が、
こちらの → 『 学校に行きたくないなら休んでよいという法律「教育機会確保法」は不登校してる子どもたちを応援する 』です。


今回は、この人生観が180度かわるといっても大げさではないほどの、とーーーっても、とーーーーーっても重要な地点から、「家庭」にライトをあてて書いています。

おうち

『 不登校のからくりを知ると、学校と自由に付き合える! 』でお伝えした ↓↓ の流れ、

この
① こどもに合わせない学校

↓

② 学校が合わない

↓

③ 居場所

の ③ 居場所 には、おうち があります!

落とし穴

こどもが学校に行かなくなって、「学校は無理に行かなくてもいい」とおもうようになったあと、
わたしたち親が通る道に、次のような落とし穴があります。

だったら、学校以外の、どこか、別のところに。


学校やスクール等のほか、集団参加のできるところ、たとえば、野球やサッカーなどのスクールも含みます。

「土日は自然にかえろう会サークル」なんてのも含みます。

質問

ここでちょっと質問です。

「学校は無理に行かなくてもいい」になったあと、

どうして、学校の代わりになる場所を、あなたは さがしはじめるのですか?

・

・

・

どーしてだろう?

自分さんにきいてみてね。

人生観が180度かわるといっても大げさではないほどの、とーーーっても、とーーーーーっても重要な地点 が、ここ。

この 落とし穴のなか だから。

自分さんにきく

・

・

・

って、

この落とし穴のなかが、生き方を180度かえるなーんて言われたって、

あせるっちゅーねんなあ。

ヤベー、早くあがんなきゃ、、、とかって おもっちゃうんだよね。

けれど、

それでも、

きいてみてほしい。

どうして、学校の代わりになる場所をさがしはじめるのか?
どうして、そこへ行かせたいのか?

(あとね、学校にも行かない…、フリースクール等にも行かない…、サッカーやサークル、習いごと等にも行かない…ってなったときに、「せめて、外へお出かけしてほしい」とおもうのは、どうしてか?)

(フリースクール等をつくりたい、はじめたい、と思われている方も! どーしてつくりたいのか、、、)


1週間なのか、1ヶ月なのか、1年なのか、5年なのか、、、それはわかんないけど、
根っこにいる自分さんと再会できるまで、考えつづけてほしいなっておもう。

何度も言っちゃうけど、この落とし穴は、さいきょーでさいこーなギフトだよ。

容認

でもね、次第に、

学校に行きたくないと言いつづけるこども、、、

元気がなくなってきたこども、、、

を目の前にして、

そこまでして行かせなくても、、、とおもうようになり、

「不登校」を容認するようになってくる。

  

親の想いは、

「学校は無理に行かなくてもいい」になる。

そして、学校の代わりになる場所をさがしはじめる、へと変化していきます。

↑↑ これの、ここんところ ↓↓

そこまでして行かせなくても、、、とおもうようになり、

「不登校」を容認するようになってくる。

「不登校」を 容認 するようになってくる。

の、 容認。

この「容認」、こいつがやっかいなんです。


大辞林によると、
容認とは、(本来は認められないことを)よいとして認めて許すこと。とあります。

これ、わかりますか?

たとえば、あなたが、熱があって夕食の用意をするのがしんどいときに、こどもさんから、

こども

まあ、熱があるんならしかたないね。

本来は認められないことだけど、よいとして認めて許すよ。

と言われてるようなもんです。

はあ〜? ってなりません?


つまり、不登校は容認するようなことではない んですね。


そうは言ってももちろん、< 否認 > からはじまった「不登校」が、< 容認 > になった!! これは すんごい ことです。

もうほんとね、よーやったなあ! ですよね。

< 否認 > から < 容認 > ですよ。とらえ方が180度かわったんですもの。

こどもさんのいのちをまもったんだもん!

ほんとにね、ほんとに、ほんと、よーやったなあ♡ です。


、、、だから「落とし穴」なんです (☍﹏⁰)。

数日たって、熱がやや下がり微熱になってきたときに、こう言われたらどう感じますか?

こども

ごはん、手の込んだ料理じゃなくて「も」いいよ。

簡単なので「も」いいからね。

たまんなく、かなしくなりませんか? つらくなりませんか?

掛けてもらいたい言葉は、こんなじゃないですよね。


ほしいのは無償の愛であって、これじゃあ、有用性を求めた「ごはんは作らなければならない」という前提枠があります。

ごはんは作らないといけないんですよね。どんだけしんどくったって。

学校は無理に行かなくて「も」いいになる。

そして、学校の代わりになる場所をさがしはじめる

もおなじですね。

学校の代わりになるところには、行かないといけない。。。

無用の用

人生観が180度かわるといっても大げさではないほどの、とーーーっても、とーーーーーっても重要な地点 < 容認 >の状態のとき に、

親がすべきことは、学校の代わりになる場所をさがしはじめることではないとおもっています。

すべきことは、自分のからだに棲みついている慣例化に気づき、

こどもが自分のままでいられるおうちにすること です。

(「ゆっくり休ませてあげること」「ゆっくり休んでいられるおうちにすること」じゃないよ。これじゃあ、休んだあとは学校に行かなあかんって感じやん!)


そのために必要なことは、

こどもを恐怖に対する敏感さから解放することができる、そんな自分(親)になることです。

容認 のあと、

受容 を経て、

無用の用 の域になること。

荘子の言う「無用の用」を、こどもとの暮らしからひとつでも多く発見することができれば、

「いま ここ」生きてることが、ただたのしくなる。

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