こんにちは。
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
「心の専門家」のなかにも、カウセリングの構造にとらわれないひと/とらわれるひとがいる、ということとは関係なしに、「カウセリング」はこういう目的でつくられている、という話を前回しました。
>>> 『 小沢牧子『「心の専門家」はいらない』スクールカウンセラ—に不登校や学校に行きたくない・行かない相談をする前に知っておきたいこと 』
この記事はその後編。これもあれもそれも、なぜこの機関が存在するのか、ってことを知っているのは重要なことだな、という話です。
もくじ
学校と子どものズレのなかで
学校は、おとなが用意した子どものための居場所である。少なくとも当の子どもの側は、そう受け止めている。子どもの居場所であるからには、立場の異なるおとなと子どもが意見を出し合ってその場を作っていくのが自然であろう。しかしそうはなっていない。先のビデオテープの場面がいみじくもそれをしめしているように。おとなが一方的に場を用意し、子どもはそこに合わせるべきもので、合わせられない子どもは「心」に問題があるとされ、指導・治療される。柔剛いずれかの手法、またはその併用で。
引用:「心の専門家」はいらない
※ 先のビデオテープとは … 1997年、当時の文部省が臨床心理学者らの協力のもとに、2億円の予算で作成し、全国の小・中学校に配布した『学校におけるカウンセリングの考え方と技法』と題されたテープ。
※ そのビデオテープの場面とは … 横暴な教師のやり方に腹をたて、暴力行為に及ぼうとしている中学生へのカウンセリング事例が詳細に書かれている。
柔らかな管理をもたらす「すぐれた」カウンセリング技法(傾聴、受容、繰り返し、明確化、支持、質問、自己開示など)によって、教師や学校の現状の問題には触れず、
生徒の抗議のみを「問題行動」として取り上げ、その問題を、個人の心の問題へとすりかえ解決とする。
『 小沢牧子『「心の専門家」はいらない』スクールカウンセラ—に不登校や学校に行きたくない・行かない相談をする前に知っておきたいこと 』でも書いたように、
カウンセリングとは、社会適応を促すための方法であり、
やさしく巧妙な管理技法であり、問題をすりかえる技法であり、対等関係を装った権力関係のもと、
「社会や制度の問題を、個人の心の問題へすりかえるカウンセリング技法」と、「社会に合わせるように、個人を変えようとする思想の欺瞞性」が覆い隠されている。
これらの危険性が、『「心の専門家」はいらない 』では何度も、何度も繰り返されます。
ところがこの場に合わせられない子ども、なかでも「不登校児」はこの三十年間増加する一方で、文部科学省の発表によると、二000年度にその数は、小・中学校合わせて十三万四千人を越えている。中学校では三十八人に一人の割合である。保健室などで過ごす子どもはこの中にカウントされないし、発表する学校側はその数をできるだけ抑えようとしているから、実質的不登校の数は発表されたものよりはるかに多いことは確実だろう。その問題は、「不登校隠し」という表現で、しばしば指摘されている。
引用:「心の専門家」はいらない
文部省と「心の専門家」の結びつき
このような事態が起こっていることと、学校にスクールカウンセラーが導入されたこととは、当然関係している。すでに第Ⅱ章で述べたことだが、八〇年代後半に「心の専門家」の側から学校への参入の働きかけが行われ、専門家内部で、文部省を監督官庁とする民間資格認定制度も整えられて、九〇年代に入ると、その出番を待つばかりとなっていた。
引用:「心の専門家」はいらない
※ 心理臨床家の「高度」な資格を作ろうとする動きが盛んになり始め、1988年に「日本臨床心理士資格認定協会」が民間レベルで作られ、資格を発行しはじめる。
臨床心理士さんたちの激しい対立は、91年に、臨床心理士の国家資格化に協力すべきか否かで二つの立場に別れ、「否」を主張した側が日本臨床心理学会を脱会して、その後93年に、日本社会臨床学会を設立。
『「心の専門家」はいらない』の著者・小沢牧子さんは、日本社会臨床学会に参加。
本書『「心の専門家」はいらない 』のなかで小沢牧子さんは、
「心の専門家」という言葉に最初に接したのは、1985年12月の『毎日新聞』の文化欄における河合隼雄さん(日本臨床心理学会)の文章だったといいます。
タイトルは、「『心』の専門家の必要性」。
学校における子どもの問題を論じ、「心の専門家」の必要性を説いた内容を紹介したあと、
河合隼雄さんの主張には、当事者の子どもの事情を抜いた、専門家の縄張り競争の図式が見えるといい、
新たな専門性の参入と分業化の進行は、子どもの生活管理をいっそう強め、さらに問題をこじらせるだろうと述べられています。
不登校増加の原因
学校という、国が用意した子どものための場所は、子どもとその家庭の管理機構の意味をも持つ。一方、子どもの側からすると学校は、友だちやさまざまなおとなといっしょに過ごし暮らす場である。不登校の子どもがうなぎのぼりに増えていく事実は、この管理機構がうまく機能しなくなったことを示すし、子どもにとって自分たちの生活の場と感じられなくなったことを伝えている。
引用:「心の専門家」はいらない
(略)学校のありようは、なかなか変わらない。なかでももっとも強固に変化を阻むのは、学校と子どもについてのおとなの側の意識である。そこがどんな場であろうと、子どもが学校という名の場に通うのは当然であり、通わないとしたら子どもと家庭に問題があるからだという考え方は根強い。それは社会に根を張った学校信仰のゆえでもあろうし、またそう考えていたほうが、おとなにとって都合がいいからでもあるだろう。子どもはおとなの決めたことに従うべきだという基準を維持することができ、それはおとなの支配欲望を満足させる。
引用:「心の専門家」はいらない
スクールカウンセラーが学校に導入された
学校機構を従来どおり保持しようとする国・文部省と、学校という全国規模の大きなマーケットに職場をひろげようとする専門家の願望は、このような背景のもとに結びつき、学校への「心の専門家」の配置準備が進行した。ただしそれを具体化するには、なんらかのきっかけが必要であった。
引用:「心の専門家」はいらない
きっかけは、1994年11月に愛知県で起こった「いじめ」による、ひとりの中学生の自死でした。
この事件を契機に、翌95年度からスクールカウンセラーの学校への導入がはじまりました。事業名称は、「文部省スクールカウンセラー活用調査研究委託事業」。
学校へのカウンセラー導入を推進してきた専門家のひとり ↓↓
衆議院文教委員会は1994年12月8日に集中審議し、与謝野文部大臣が「早急に取り組む」と言明しています。翌9日には文部省は「いじめ対策緊急会議」を招集して対応を協議しました。(村山正治『新しいスクールカウンセラー』ナカニシヤ出版)
引用:「心の専門家」はいらない
国の側からの新しい政策はいつも、あらかじめ準備され、何らかのきっかけを待って具体化される。
「豊かな」国に住むわたしたちは、サーカスの動物のようにしつけられていた
86年、「このままじゃ生きジゴクになっちゃうよ」との言葉とともに、自死をした中学生がいました。
しかしながらこれは、学校は「校内暴力」が問題とされていた時期。このときは、カウンセラーの導入を見送ったそうです。
「カウンセリング? ふざけるな」と生徒にたちに殴られて終わってしまったかもしれない。(『「心の専門家」はいらない』より)
水道の民営化
大阪北部地震で、老朽化した水道管が破断するなどして21万人以上に被害を及ぼしたのにつづき、東京都北区でこれまた老朽化した水道管が破裂し、地面が陥没したニュース。。。
「老朽化した水道管」問題が取り沙汰されるようになっているなあとおもっていたら。。。
W杯での日本代表の活躍に湧き、オウム真理教の松本智津夫被告ら7名の死刑執行をワイド化させていた日、水道法改正法が衆議院本会議で可決されましたね。
そのあとも、ずっと大雨で。。。
国の側からの新しい政策はいつも、あらかじめ準備され、何らかのきっかけを待って具体化される。
気づかれないように人々の心を操り、企業的な社会・カウンセリング的な社会にしていく。
人と人との関係性
問題をすりかえられる。
人々が本質を考えないように。革命が起きないように。
不登校のことだけじゃなくって、自分の内面に目を向けさせることが強調され、問題意識や批判を封じ込める構造になっているカウンセリング。
そんなじゃ、考えること、考えたことをぶつけ合うことがないがしろにされる。
でも、ほんとは、ぶつかりあってなんぼのもの。
与えつづけられている考えの枠組みをはずそう。
横のつながりを紡ごう。
今日の本
河合隼雄のカウンセリング講座
カウンセリング講座の記録をまとめた河合隼雄の一連のシリーズの最新刊。日本の学校教育をカウンセリングの視点から見た場合そこに何が見えてくるのか、カウンセリングにおける「見立て」の問題、カウンセリングのさまざまな技法について、医学や宗教とカウンセリングの関係、病というものを本人や家族がいったいどう受けとめていけばよいのかなど、人間のこころにまつわる面白くて深いお話。
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