こんにちは、
AI-am(アイアム)の 星山海琳 です。
はじめて行った飲食店などでメニューを選ぶとき、ふたりで来たならせっかくなので別のものを選ぼう、と思う。
絶対にこれというものがあれば別だけれども、こっちもちょっと気になるなーと思ったら、そうすることはよくある。
半分こでもおすそ分けでも、気になったもののどちらも食べられたらうれしいし、食べものの体験が増えて楽しいし、一つよりは二つを見るほうが、そのお店のことをより知ることができる。
それはそうで、だからそうするんだけれども、同じものを注文する楽しみもあることを、ときどき思う。
「これ」おいしいね、いまいちだねと、「これ」を共有することができるのは、特別な喜びだと思う。
ただそこに「いて」、ひとつの食卓で一緒にごはんを食べること
家での毎日の食事というと、基本的にその日の献立はひとつで、選べるようなメニューはない。
とりわけの好物や食べる量、順番などはともかく、みんな同じものを食べることになる。
同じ釜の飯を食う、盃を交わすなどとはよく言ったもので、信仰や儀式、計略の意図を除いてみても(おそらく2021年の日本のほとんどの家庭にはない)、ただそこに「いて」、ひとつの食卓で一緒にごはんを食べることで培われるものがある。
それが「家族」だとか「絆」や「分かち合い」なんて言うほど気持ちの悪いものはないし、家庭では目的をもった時点ですべて台無しになると思うし、それが正義ということになると凶暴すぎるけれども、人と人として、やっぱりあるものはある。
個別の存在でありながら繋がること
ここに新米があって、ぶり大根があって、黒胡麻を和えたほうれん草のおひたしに、わかめと薄揚げと大根の葉のお味噌汁がある。
およそ最大公約数の味わいに作られたひとつの鍋から、およそ均等に人の数に分けられ、食卓へ運ばれていく。集まり、席につく、箸を手にとる。
味覚は交換できないから、言葉を交わす。おいしいとか薄いとか、しょっぱいとか甘いとかいう。そうやって相手の感じ方を知るけれど、それ自体に特別な意味はない。
知らないよりは知っているほうがより親密さを感じられるシーンもあるけれど、わたしたちはクイズをするわけではない。
わたしたちが得るのは、そもそも個別の存在であるそれぞれのわたしたちが、個別の存在でありながら繋がっている、その実感だと思う。
「これ」を共有するとき、「これ」を共有している空間が「ここ」にある。「ここ」にわたしたちがいて、わたしたちの存在自体が「ここ」なんだという、たわいもない実感だと思う。
そんな実感の繋がりによって、ひとつの関係が作られて、ひとつの家が作られていく。