こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
こどもの「いま」は大事だから、だから大切にしていたいのだけど、保留条件みたく、それは大事「だから」大切にする、ではないです。
じゃあ、こどもとの「いま」を大事にするって、どういうことなの?
こどもとのおしゃべりは、どうすれば紡がれ、続いていくの?
前回の『自分の殻を割ってくれる子どもと、一刺し一歩、「いま」をたのしもう』の記事にいただいたコメントとともに考えを書いています。
もくじ
まりんさんが15歳のころの話
前回、『自分の殻を割ってくれる子どもと、一刺し一歩、「いま」をたのしもう』という記事を書きました。
その記事をFacebookにシェアする際に、いただいた刺し子のハンカチをながめていて思い出した「こどもとのいま」のひと刺しの風景を添えたんですね。↓↓↓
よっぴーの投稿
まりんさんが15歳のころの話。
まりんさんが早朝バイトから最寄駅に戻ってくる時刻と、
その最寄駅近くでバイトしていたわたしの終了時刻がほぼ同じだったんですね。
最寄駅から家までは、自転車で5分ほど。
どちらが言い出したわけでもなく、その最寄駅で落ちあって、自転車をおしながら、家までの道をふたり歩いて帰るようになった。
とは言え、、
ドンピシャりで合流することはほぼなくて、たいていは、どちらかが5〜10分、長いときは20分〜とか待ったりする。
そうなの。そんなの、そんなとこで待ってるあいだに家へ帰れるんですよ。
一人でよう帰らんわけではなく、家の鍵だってふたりとも持っている。
なのに、夏の暑い日も、雨の降る冬の寒いときも、そこで待ち合った。
曲がり角を曲がると、待ち合う場所が見えるのね。
まりんさんがすでに待っていたら、そこからわたしは、大きく手を振る。
自転車がヘタッピなもんだから、片手運転になるそのたび、グラついてね。ふたり笑うの。
知ってた。
ふたりとも。
この瞬間は永遠にはつづかないことを。
だからこそ、その瞬間(いま)を、こころを込めて楽しんでだ。
ひと刺しずつ、ていねいに、ていねいに、小さく刺していく、手しごとの刺し子のハンカチを眺めながら、そのひと刺しの風景をふと思い出した。
「家に着いても、車から降りないでそのままおしゃべりしてるの」
この↑投稿に、「デモクラティックスクールさいたま あみゅーず」のスタッフでもある田中麻美さんがコメントをくれていて、そのコメントは、「そうそうそう!」と腹の底から同感するものであったのだけど、
「オヤトコ学校 いい舟」で勉強しあっている方々から、よっぴーの文章と、田中麻美さんのコメントを読んで、
⚫︎「こどもとのいま」や「こどもとのいまを楽しむ」ということがどういうことか、わかったような気がします」
⚫︎「自分に染み込む感じがしました」
⚫︎「「いま」のミクロさがわかりました」
⚫︎「パッカ〜んと頭が開きました」(※昔から続く従来のタテの関係をヨコの関係にしていくには、頭を開くところからで、だけども頭を開くことは簡単なことではなくて(ほんとは単純なことなんだけどね)と書いた『「オヤトコ学校 いい舟」が3周年を迎えました!』の記事にたいして)
といった類のおたよりをいただきました。(ありがとう!)
そっかあ〜、、
うんうん、わかりやすいよな、と思い、
だったら、、と、ブログで紹介させていただきたくって、以下、紹介させてもらいます。
田中麻美さんのコメント
刺し子✨そうだよね〜😊しみじみ思うよ✨
私も息子と、出先から車で帰ってくる時、車中でもベラベラおしゃべりしているんだけど、家に着いても、車から降りないでそのままおしゃべりしてるの😆
もうウチの駐車場なのだから、降りて家に入ってからしゃべればいいんだけど、そうすると盛り上がっているのが途切れるし、やらなきゃいけないことが出てきて(鍵開けるとか、電気つけるとか、手を洗うとか)、同じようにしゃべられなくなるから(だと思うんだけど)、どちらも降りる気配なく、そのまま話すんだよね〜。1時間くらい話す時もあるよ😊
そんなことしてると、夕飯作るの遅くなるなとか、買ってきたアイスが溶けるとかあるんだけど、じゃあアイス今車で食べちゃおうか♪、なんならそれ夕飯でいい?みたいな話になって、本来3針縫えるかなと思ってたところが、1針になったりするかもなのだけど、この1針が後々に大切な1針になるんだよね😊
そしてもしかしたら、1針になっちゃったかなと思ってたそれが、逆に5針くらいになってるかもしれないんだよね😊
とは言っても、私達はそんなこと考えておしゃべりしてないけどね😉 楽しい今を生きてるだけ。
オフ会いいね💕デモクラホーム、楽しみにしてるよ〜❣️

こどもとしゃべっている二人の「いま」が重なっている
田中麻美さんがコメントで書いてくれたエピソードは、麻美さん親子の間では、いたってよくある日常の一コマだと思います。
手に取るように見えるんです。なぜなら、よっぴーまりんの間でも(よっぴーと息子の間や、家族間ででも)同じような場面が、日々茶飯事にあったから。今もあるから。
わたしが書いた自転車をおしながら、、、も、ベラベラおしゃべりしながら、家までの道をふたり歩いて帰って、自転車置き場に着いた。
けど自転車置き場に着いても、自転車のキックスタンド(ママチャリの後輪に付いているストッパー)もとめないで、自転車のハンドル部分を持ったまま、そのままおしゃべりしている、なんてことが、わたしたちの間でもよくありました。
でもって、麻美さんが書かれていた、
「家に入ってからしゃべればいいんだけど、そうすると盛り上がっているのが途切れるし、やらなきゃいけないことが出てきて(鍵開けるとか、電気つけるとか、手を洗うとか)、同じようにしゃべられなくなるから(だと思うんだけど)、どちらも降りる気配なく、そのまま話すんだよね〜。」
ここなんですよね、大事なところは! 大事にしたいところは!
このやらなきゃいけないことって何か?
麻美さんは、鍵を開けるとか、電気をつけるとか、手を洗うとか、そういったことを言っている。やらなきゃいけないことが、洗濯物のとりこみとか、お風呂を洗うとか、片付けとかじゃないんですよね。
洗濯物のとりこみをさっさとしないと夜に押され、明日が遅れる……。
そんなこと麻美さんだって知ってる。知ってるけどそうじゃない。そうはしない。だっていま、こどもとしゃべっているんだもん。
こどもとしゃべっている二人の「いま」が重なっているんですよね。
こどもとの「いま」がミクロにつながっているんですよね。
[box class=”blue_box” title=”ほっとなニュース” type=”simple”]
『歩く花 Vol.1 – オヤと暮らす、コと暮らす。』で、この「こどもとのいま」について細かく書いたエッセイを載せています。
『歩く花』はまりんさんがメインで作成しているAI-am発行の冊子で、Vol.4まで出ています。Kindle版でAmazonから気軽に購入できるので、ぜひに見てみてね。とってもすてきなんだよ!
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「学校に行きたくない」「でも将来は?」
こどもが「学校に行きたくない」と言い出したとき、親がやっちゃう「でも将来は?」という対応。
こどもは、今日、学校に行きたくない、と言っているんであって、
今日、、いま、、どうしていいかわかんなくなっているときに将来をもちだされたって、そんなの誰だって、よけいにわかんなくなって、追い詰められていくだけじゃないですか。なのに、、、「今日」が消えかかっているそのこどもをつかまえて、「将来は?」を上から落とす。
(この言葉を言い出すまでの親と子の間が、 “おしゃべり” が少なかった関係であれば、こどもが「学校に行きたくない」と言い出したそのときというのは、山の、、淵の、、崖っぷちに力なく立っているときです。)
洗濯物のとりこみをさっさとしないと夜に押され、明日が遅れる…… 。
そう思い込まされてきた親は、「将来は? 爆弾」を落としてしまうけれど、夜に押され、明日が遅れるからこそ、いまここでしなきゃいけないのは、こどもとの「いま」とふれあうことです。
いまを切断しないことです。
『モモ 』に出てくる灰色の男みたいに、こどもの「いま」を食べちゃわないことです。
麻美さんが言わんとする↓↓この箇所は、そういうことだと思います。
本来3針縫えるかなと思ってたところが、1針になったりするかもなのだけど、この1針が後々に大切な1針になるんだよね😊
そしてもしかしたら、1針になっちゃったかなと思ってたそれが、逆に5針くらいになってるかもしれないんだよね😊
「あ〜、眠た〜い」と言いながら起きてきたこどもに言っちゃう「早く寝ないからでしょ」の言葉もそうですね。
「いま」が重なっていないと、おしゃべりはつづかないです。
「いま」がミクロつながりしてないと、おしゃべりはつづかないんです。
おしゃべりは「いま」を紡いでいきます。
おしゃべりがどういうものか、、、こちらの記事で書いています。
>>>『「会話」ほど人生の成功につながる素敵な進化の贈り物はありません。サドベリーバレースクール/ダニエルグリーンバーグ』
「だから」大切にするのではない
でも、「だから」、おしゃべりをするんじゃないんです。← ここ、フォルティシシモのように、めちゃ強い声でいいたいとこ。
こどもとの「いま」が大事だから、、
こどもの「いま」はいまだけだから、、
だから、
大切にするんじゃないんです。
よっぴーまりん同様、こどもとヨコの関係の麻美さんは、ごくごくふつうに、いともあっさりと、語られています。「こども蔑視」とは無縁なんです。↓↓
とは言っても、私達はそんなこと考えておしゃべりしてないけどね😉 楽しい今を生きてるだけ。
こどもとの関係において、または、こどもにたいして、「⬜︎⬜︎は〇〇だから、だから⬜︎⬜︎は大事、大事にする」という考え方は、傲慢こえて、あまりに、あまりに、おそろしい。
たとえば、
遊びは主体性を育てる。だから、遊びは大事。
遊びは非認知能力を伸ばす。だから大事にする。
とかっていうやつね。
こどもだけじゃなく、ひとは、“遊んでいる”(生きている)を通して、その時々、なにかを学んでいます。仮にね、学ぶな! と言ったって、そんなのムリ! ひとは学びます。学びつづけています。
だって、学ぶ力は、もともとあるんだもん。もって生まれてきてるもん。
↑↑ 『小・中・高に通わずに大学へ行った私が伝えたいーー不登校になって伸びた7つの能力』でまりんさんが詳しく書いています!

だから、遊びが主体性を育てるのもほんとうだし、非認知能力を伸ばしていくのもほんとうでしょう。
けれども、だからこそ、そこに、保留条件みたく「だから」が付くと、とたんに遊びは、遊びではなくなってしまうんです。
遊びを、「だから爆弾」を調味料にしておいしく(まずく)料理しちゃうと、それは「こどもの『いま』」から切り離された、まるでショーウインドウに飾られる「遊び」になってしまうんです。
遊びは、ただ、遊びだから、いいんです。
おしゃべりは、ただ、おしゃべりだから、いいんです。
そのひと刺し、一刺しが、できあがった刺し子を美しくするんだと思います。(あ、「だから」、そうするんじゃなくてね💦
いま、南むきの窓辺に座ってこの記事を書いていたのだけど、頬にあたるおひさまが暑いぐらい。
12月の秋晴れ!
なあ、まりん、海いこ!
このまま「いま」が流れていく。