こんにちは、
AI-am(アイアム)の 星山海琳 です。
こどもとの暮らしにおける親の方針のひとつに、「自分がされて嫌だったことはしない」「自分がされて嬉しかったことをする」というものがあるのを聞く。
けれど、この考えのあるところで、こどもとの健全な関係はなかなか築けないよな、と思います。
そこにあるのは親とその親の関係で、親とこどもとの関係ではないから。
もくじ
「親にされて嫌だったことをしない」「親にされて嬉しかったことをする」
こどもと暮らすなかで、いわゆる「子育て」をしていくなかで、親はさまざまな方針や、方針とまで堅いものではなくても、ふとした折に言葉に出てくるような意識をもっていると思います。
そのひとつで耳にするのが、「自分がされて嫌だったことはしない」「自分がされて嬉しかったことをする」というもの。
自分がされて、というのは、自分が子どもの立場であったときに親からされたこと、を指していて、親になったいま、それをこどもとの関係に反映するということになるんです、が。
そもそも、親と子の関係にかぎらず、どんな立場の誰でも、誰かにされて嫌だったことや嬉しかったことがあって、記憶に残るものもあれば残らないものもある。
こういうことだけはするまい、こういう人にだけはなるまい、と痛感することもあれば、自分もこういうことがしたい、こういう人になりたい、と勇気づけられることもある。
そんなのはごく自然なことで、そうした体験が自分の言動に組み込まれていく、わたしたちは幼いころからずっと、そうやってできています。
オリジナリティとか考えるのはばからしくなるほど、つぎはぎにできている。
それは人として、当然そうなんです。
けれど(自分の)親にされて嫌だったこと・嬉しかったこと、それらが親の立場になったいま、こどもとの暮らしにおける自分の行動のベースになる。さてそれはどうなのかな、というのが思うところです。
こどもとの関係に、親との関係を持ち出す必要はない
こどもであるわたしの親の背後に、その親(こどもから見た祖父母)がいる。
なんならこのわたしたちの関係のど真ん中に、幻影としてのそのひとに居座られている。それは、どう考えても気分のいいものではありません。
親は、こどもだったときの自身とその親との記憶を通して、いまここでこどもであるわたしを見ている、というのは、どうも信頼ができない。
もちろん親から受ける影響ははかり知れないし、最小限にすませることを親と子がお互いどれだけ意識していても、それはもう大いに、受けまくるものです。
広義の社会人としてのあらゆる価値観も、習慣も、家族や家庭といったものをどう捉えるかということについても。
親がまだ保護者として自分を養ってくれているときに、相手を心底嫌いだと思ったり、こういう親にだけはなりたくない、自分が親になったときには……と気持ちを強くすることも、ままあるものだと思います。
「わたし」と親の切り離しを経て
それでも、個人差はあれどいずれかのタイミングで「わたし」というのは親からの切り離しを経ていく(実際に一緒に住んでいるとかいないとか、経済的な自立をしているとかしていないとか、連絡をとっているとかとっていない……といったこととは関係なしに)。
だから、(自分の)こどもとの関係に、(自分の)親との関係を持ち出す必要なんてなくて、というかこどもからすれば、持ち出されると困ってしまう。
同じ立場になってはじめてわかることがある、というのは親にかぎったことではないから、親ともなればなおさら、実際に親になることで自分の親を理解できる部分や、ありがたみを感じたり、尊敬できる部分が増えるというのは確かだと思います。
けれど、だからといって自分の親と同化されても(それが裏返したものであっても同じ)、こどもだったころの自身といまここにいるわたし(別のこども)とを同一視されても、困ってしまう。
親は、(自分の)親とは違った存在でいていいし、いてくれないとまずいし、そうでないとこどもであるわたしだって、親と違った存在でいられないんです。
「親にされて嫌だったこと」をしない自分に安心するとき
「自分が親にされて嫌だったこと」をしないのは、こどものためを思ってのことではなくて、わたし(親)自身を苦しめないためじゃないですか。
「親にされて嫌だったこと」をしない自分に安心するとき、見えているのはいまここにいるこどもではなく、親の幻影だと思うんです。
されて嬉しかったことをするのだってそうで、自分が見たいものを見るための口実になってしまう。しかも、さも善良そうなやりかたで。
違う存在だとはいえおなじ人間ではあるから、されて嫌なこと/嬉しいことが似通っているというのはもちろんありえる話です。わたしたちは多かれ少なかれ、そういう了解のもとで社会生活を送っているし。
だから、正解がよくわからないときにひとまずそれを選んでみるならまだしも、表面であれ裏面であれ親と同化したり、「切り離し」を経る前の自身と、いまのこどもを同一視してしまうのはほんとうに傲慢だと思う。
こども個人を見ていないだけにとどまらず、親であるわたし自身を(さまざまな形で)満たすためにやっている、というわけで。
あなたとわたしを持ち寄って「わたしたち」をつくる
いまのあなたとかつてのわたしの似た経験は、あなたを理解していく、想像していくための足がかりになること。
けれどそれは「似ている」のであって、わたしとあなたの経験も感性も「同じ」ではないこと。
誰がなにを嫌がってなにを嬉しがるかは普遍化できないと同時に、わたしたちはわりと似通った存在でもあること。
けれど実際の感性がなんであれどうであれ、「自分がされて」「自分がされたら」を基準にすれば他者の存在がすっかり欠落してしまうこと。
そうした前提は、親子にかぎらず、人と接するときにはつねに欠かせません(職場で前任の人といちいち比較されるのはいやだし、おせっかいな人のおせっかいがときどきほんとに鬱陶しいのはこちらが見えていない、見ようともしていないからだし)。
そして親と子となればなおさら、自分とこどもとの関係に親の幻影を持ち出すのではなくて、そのベースの上にわたしたちを築いていくのではなくて、自分とこども、わたしとあなたの関係は、わたしとあなたを持ち寄ってできていくものであってほしいと思う。
よっぴーの「自分がされたらいやなことをしなかっただけ」について
ちなみに、わたしたちの共著『小さな天才の育て方・育ち方 – 小・中・高に通わず大学へ行った話』のなかでは、よっぴーがこう書いています。
「自分がされたらいやなことをしなかっただけ」(p153)
「条件を付けられた子というのは「あるべき子ども」だとおもうのです。わたし自身「あるべき子ども」にさせられて、それがいやだったから、数々の強制や強要、振りかざす権威、指示などを排除したというわけです」(p154)
これについて尋ねると、よっぴーは「安直な書き方やったなーー」と頭を抱えていました。笑
夜遅くまで話していてはっきりしたのは、親に対して抱いた嫌悪感あるいは好意というのはどこかの時点ですっかり「切り離し」を経て、自分の考えのなかに消化されて、自分のやることなすことは自分の理念であって、親への反発でも賛同でもないのだということ。
よっぴーは、
「17歳のとき、自分に誓ったことがあります。いつの日か自分が親になれたなら、子どもがビクビクしなくていい家庭を築く。ウソをつくことを怒るのではなくて、子どもがウソをつかないでいられる家庭をつくる、と。(中略)おなじことはくりかえさない。わたしは安心できる関係を家庭からつくる、そう誓いました。」(p98-99)
とも書いているけれど、この誓いよりも以前に悶々と考えているからこそこの17歳の瞬間があって、このときにはすでに、親を(心のうちで)見捨てることにもう恐怖はなかったんだと、そう言っていました。
こどもを抱くわたしの衣服がわたしと(わたしの)親の模様でできているのでも、こどもを抱くわたしの衣服の裏面が(わたしの)親の言動で縫われているのでもなく、こどもとわたしの模様でできているのだと。