こんにちは、
AI-am(アイアム)のよっぴーです。
先日、こどもと暮らすっていうのは、経済学の本ばかりが並ぶ自分の本棚に、哲学書が一冊加わる、そんな感じだよね、てな話になって。。
今回は、このとき話したことや、こどもの存在は自分の殻を割ってくれるよなぁ、こどもとの暮らしって刺し子のようだなぁ、、そんなことを書いています。
もくじ
ガツーンと殻が割れ、新しい自分が生まれる
「自分の殻を割ってくれる」。
これって、殻を割ってくれる/殻を割られるまでは、“自分は殻をまとっている” なんてふうには捉えていなかったりするんですよね。
殻っていうのは、「あるべき論」だったり、常識だったり、自分への禁止、理想、期待、そういうやつね。
それがある出逢いによって、ガツーンと殻が割れ、新しい自分が生まれる。
その最強で最高の出逢いがこども(わが子)だと思うのだけど、こどもと暮らす前、自身がこどものときや若いときにも「自分の殻を割ってくれる」ひととの出逢いや出来事はあるなあ、っておもいます。
それまでの自分には、想像もできなかった世界がある
色には青色しかないと思っていた(思い込んでいた)ところに、赤や黄色、、多様な色を使って絵を描くひとと出逢ったり(「学校は行きたいのなら行くのがいい。行きたくないのなら行かないがいい」もそうだね!)、自分にはできないことを平然とやるひとと出逢ったり。
それまでの自分の人生では想像もできなかった世界があるってことを知る、そのはじまり、きっかけをくれるひととの出逢いは、自分のそれまでの世界の淀みや狭さ、つまらなさを教えてくれるんですよね。
重いコートを着たままとどまっていたことに気づく。
そして、そしたら、世界がひろがりだす! おどりだす!
深夜ラジオ
強烈な出逢いのひとつに、わたしの場合「深夜ラジオ」がありました。
中学生になって、中間試験なるものを目前に控えたときのこと。はじめて「深夜ラジオ」と出逢ったんですね。
それまでにもラジオは知っていたし、流れてくるのを聴くでもなく聞いたことは幾度となくあった。
けれども、深夜、自らの意思で周波数を合わせてラジオ番組を聴く、をしたことはなかったんです。
その出逢いは衝撃的だった。
音楽や映画、ニュース、笑い、、どれもこれも知らないことばかりで「わぁ〜(*’∀’*)/☆゜」「へぇ〜 +*:.。.*:+」の連続。
老若男女を問わずたくさんのリスナーの人たちの考えや思想を知っていけるのも、興味深くすっごく魅力だった(試験勉強そっちのけで聞き入ったのは言うまでもなく、以降、毎晩のように聞くようになった)。
「ふざけるな、俺たちの本音はこうだ」(『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代 』p89)、と言える深夜ラジオは、パーソナリティとリスナーが共鳴する一体感を深めたし、教室にはないディープな話題は、わたしの世界をひろげるのでした。
ひとり旅
二十歳のころに、沖縄の無料キャンプ場で一年近くひきこもっていたんですね。そのときは、さらに激しく殻を割ってくれるひとたちとの出逢いがありました。
灰谷健次郎の『我利馬の船出』に出てくる “だれでものおっさん” のようなひとたち。
通常の生活では悩み切ることができないもんだから、ひとりになれるところに、ひとりで行ったのだけど、自分をごまかさずにある事を考えたいときや、なにかに引っかかっていたいときっていうのは、時計や親切な声かけは邪魔になるんですよね。
まりんさんがこどものころ(小中高と行かないで、その間の時間すべてを自分のやりたいことに使っていたころ)、日がな一日、窓の外を眺めていたり、
深夜、テレビ放送が終了したあとに流れていた高速道路をうつす定点カメラの映像をずっと見ていたり(で、早朝の番組がはじまるとテレビを切って寝る)。
ああいう時間は、必要なんですよね。
“自分”の本棚から、自分“たち”の本棚へ
沖縄での出逢いや、その後のひとり旅は、いまの自分に絶大な影響を与えたけれど、わたしの人生、最強で最高な出逢いはこども(わが子)でした。この存在の右にでるやつはなし! です。
経済書ばかりが並ぶ自分の本棚に、平気で哲学書を突っ込んでくるんですよ。文化史や天文学、動物学、実用書、、なんだっておかまいなし。そこには優劣も見栄えもありません。
「わたしの本棚に勝手に本を入れないで」は通用しないんですよね。
「その本はいいけど、そっちの本はよくない」も通用しません。
もうね、こどもがいなきゃ自分で手に取ることはなかっただろう本が並んでいくんです。その風景は、“自分” の本棚から、自分 “たち” の本棚へとひろがりが豊かになっていく、そんな感じです。
音楽でいえば、クラシックやジャズ、ポップス、ロック、、に加え、そらで歌える「アンパンマンのマーチ」が加わったりね。
刺し子のハンカチとこどもとの暮らし
先日よっぴーまりんのおうち、デモクラティックホームに来てくださった方のおひとりRさんが、片付いている部屋を見て言うんです。
「いいなぁ」って。
「うちは、こどもが工作が好きで、好きなのはいいけど部屋が散らかって、、だけど片付けなくて、、」と。
この「片付け」アルアル。わたしはこう思うよ、って話をさせてもらったのだけど(ほかにもたくさんのおしゃべりをしたよ〜)、
同じく参加者のUさんが、みんなにプレゼントしてくださった刺し子のハンカチをながめていて、「こどもとの暮らし、生活は、刺し子といっしょだなあ」と思ったんです。
↑ いただいた刺し子のハンカチは、とってもきれいなんです。
でもそれは出来上がっているからですよね? 完成しているから。
出来上がった一枚の刺し子のハンカチを見ると、「きれい!」なんだけども、よくよく目をこらして見てみれば、一針一針の手しごと。しかも、その一刺しの目はちっこいの。
ちっこい、ちっこい針目を、一刺しずつ、ていねいに、ていねいに、小さく刺していくんですよね。
刺しながら、目を近づけて見てみたり、離して見たり、縫い目をしごいて布と糸をなじませたり、、、刺しおわったら横をくぐらせ、縦をくぐらせていったり。
刺し子の一刺しずつと、こどもとの一歩ずつの歩み。似ているなあと感じたのでした。
部屋は散らかっているけれど、それも一刺し、一歩ずつ。
ある日は片付いてる、それも一刺し、ある日の一歩。
まるだったり、さんかくだったり、しかくだったり。短かったり、長かったり、歪んでいたり。
「あるべき論」だったり、常識だったり、自分への禁止、理想、期待といった殻は、こどもに割ってもらって、一刺し、一歩、その「いま」をたのしもう。