不安にかられて「不登校でも大丈夫ですか?」と尋ねる本人に「大丈夫!」の答えでは思考がオートマチック化する

am3こんにちは、AI-am(アイアム) 吉田 晃子 です。

LINE@ にメッセージをくださる子どもたちの内容を読んでいて、強く感じる、あることがあります。

強く感じる、あることとは何か?

「自分を持つ」ことの以前に、「不登校でも大丈夫」だなんて、言わないでおこうや、ってこと。

で、どうしたいのかということを、子どもにまかそうや、ってこと。

 

大丈夫?症候群連鎖

不登校でも大丈夫でしょうか? と、親さんはきかれます。

勉強してなくても大丈夫でしょうか?

ゲームばかりしていても大丈夫でしょうか?

昼夜逆転でも大丈夫でしょうか?

運動してなくても大丈夫でしょうか?

少食なんですが大丈夫でしょうか?

etc…

 

どうして親は、こういう訊き方をしちゃうんだろうね?

こういう訊き方を、わたしたち親もまた、されてきたからかな?

 

不登校でも大丈夫なの?

勉強してなくても大丈夫なの?

ゲームばかりしていても大丈夫なの?

昼夜逆転でも大丈夫なの?

運動してなくても大丈夫なの?

少食だけど大丈夫なの?

etc…

 

だからかな?

子どもたちも訊くんです。

 

不登校でも大丈夫ですか?

勉強してなくても大丈夫ですか?

ゲームばかりしていても大丈夫ですか?

昼夜逆転でも大丈夫ですか?

運動してなくても大丈夫ですか?

少食だけど大丈夫ですか?

etc…

 

不登校「でも」大丈夫ですか?

不登校「でも」大丈夫ですか? のように、

◯◯でも大丈夫かな? って思うのって、その◯◯があんまり善いものとは思えていないときですよね?

◯◯の反対にあるもの — 不登校の場合だったら登校 — が善かったり、正しいと思っていたり、格付けをしているとき、「でも」が付く。

勉強してても大丈夫ですか? とは訊かない。

規則正しい生活でも大丈夫ですか?  もない。

 

「でも」が付くのって、格付けをして、三角形の価値観に変形させられているとき。
(※ お茶でも飲んでいきませんか? などの「でも」とは異なる)

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不登校でも「大丈夫ですか?」

でもって次に、不登校でも大丈夫ですか? の「大丈夫ですか?」。

この「大丈夫ですか?」に対して、「大丈夫!」と安易にこたえる危険性を、LINE@ にメッセージをくださる子どもたちの内容を読んでいて、強く感じます。

 

たとえば、「不登校でも大丈夫ですか?」の場合だったら、不登校における何の部分をさして大丈夫? と尋ねているのか、、、

— 中学校を不登校してても受け入れてくれる高校はありますか? と尋ねられたのなら、「あるよ〜」とこたえられる。
小中高と不登校してても高認制度を利用すれば大学に行くことだって可能なんですか? も迷うことなく「可能」と即答できます。
不登校でも大人になれますか? もそう(何をもって「大人」とするのか、といったことはさておき)。学校に行かなかった人で犬になった人はいないじゃないですか?—

尋ねられる相手はもとより、尋ねている本人もわかってなかったりしているのかも?

「不登校でも大丈夫ですか?」と、尋ねている本人が漠然とした不安にかられているときの「不登校でも大丈夫!」という声かけは、思考をさらにオートマチック化するんだな、と思ったのでした。

 

「大丈夫!」は自分が自分に言う言葉。

「大丈夫」は、「自信」などとおなじで、自分自身が経験したり、歩いたあとにつくものであって、他者から言われる/他者が言える言葉じゃないのです。

 

常識化した「オートマチック」

子:「虫がこわいよ〜」
⇒ 親:「だいじょうぶだよ〜」

子:「犬がこわいよ〜」
⇒ 親:「だいじょうぶだよ〜」

子:「注射イヤだよ〜」
⇒ 親:「だいじょうぶだよ〜」

 

大丈夫かどうかは、自分(本人)が決める(おもう)ことなんだから、お母ちゃんが言うなや! って子どものころ思ってました。

私:「この髪型、かっこわるくてイヤだー!」
⇒ 親:「だいじょうぶよ〜」

ほんと、意味わかんない、笑。↑↑ 会話にさえなってない。

 

◯◯でも大丈夫ですか? ときく人や、

◯◯でも大丈夫! という人は、

幼いころから親に、さまよう自己領域を自らが解決していく手助けをしてもらうのではなく、事あるごとに「だいじょうぶだよ〜」と言われてきたのかもしれませんね。

 

で、どうしたいのか?

子:「虫がこわいよ〜」
⇒ 親:「虫がこわいんだね〜。虫、こわいよね〜」

と、受け止めてもらい、

 

子:「うん、虫がこわいよ〜。だから、やっつけて」

とか、

 

子:「うん、虫がこわいよ〜。だから(虫のいないところに)行こ」

とか、

 

子:「うん、虫がこわいよ〜。どうやったら虫がこわくなくなるかな? いっしょに考えて」

とか、とか、、、

 

なにを感じ、

なにを考え、

で、どうしたいのか

自分の問題は、自分が所有する。

 

子ども(他者)の問題を、親がすくいとらない。

子ども(他者)の問題を親がすくいとることは、子育ちのジャマをしていることになります。(⇒ ゆえに自律性が育たない

 

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それは自分軸から他人軸にする

子:「虫がこわいよ〜」
⇒ 親:「虫がこわいんだね〜。虫、こわいよね〜」






⇒ 子:「これでもうだいじょうぶだ〜〜〜!!」

 

自らが学ぶ、学びの過程が大事なのに、よく、こんなのあるじゃないですか? ↓↓

 

子:「虫がこわいよ〜」
⇒ 親:「だいじょうぶだよ〜」
⇒ 子:「だいじょうぶじゃないよー! こわいよー! だから、やっつけてーーー!!」
⇒ 親:(それでもまだ、&少々笑みまで浮かべて)「だいじょうぶだよ〜」

 

こんなの、ほんと、ねこパ〜〜ンチ!

 

自分を生きる力は、個の自由が尊厳されて成熟していくんです。

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「だいじょうぶだよ〜」と言われることに慣れて、、、

その言葉に慣れて、、、しちゃうと、

親が言ってくれる「だいじょうぶだよ〜」がないと安心できなくなっていくじゃないですか。

それってつまりは、問題解決能力をつんでいき、自分を頼ることができなくなります。

 

子ども(他者)を信頼できない人というのは、自分を信頼できていないからにすぎません。

 

問題解決能力は失敗しながら、経験しながら、問題を解決していくから伸びる

LINE@ にメッセージをくださる子どもたちの内容を読んでいて思うのです。

大人は、人(子ども)がもつ能力をつんでいく名人だな〜って。

 

この、で、どうしたいのか というところまでを、◯◯しなさい(◯◯したら〜?とやさしく言うのもいっしょ)と言わないで、子どもが言うのを待ち、そして、まかす。

 

自分の生き方や考え方にたいして、他者からの「それでいいんだよ」「だいじょうぶだよ」といった ◎ の評価を欲していることに気づいて、ちいさな、ちいさなところから、自分の尻は自分でふきなおしていけば、

自分はどうしたらいいのか? から、

自分はこうしたい! に戻ります(赤ちゃんは「自分はこうしたい!」で生きている)

 

「不登校でも大丈夫」はそのとき、自らが自らに、言ってあげられることばです。

 

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