こんにちは、AI-am(アイアム)の 星山 海琳 です。
学校教育には、目的を欠かさせない・つねに先を見るよう教える、という一面がある。
学校に行かなくなって、まるで子どもは出口もなく路頭に迷っているような気がするかもしれないけれど、出口なんてあるわけない。はじめから、なにも塞がってはいないから。
目的がないと意味がない?
いま学校で行われている教育はいろんなふうに捉えることができるけれど、そのひとつに、目的を欠かさせないという一面がある。
目的を持つことは別にわるいことじゃない。けれど目的がないと意味がない、辿りつく場所がないと意味がない、と考えさせてしまうんじゃ、もったいない。
だって、どうせ教えるならば、どんなふうにでも生きられることを教えたほうが、よっぽどためになる。
ひとつの平均台をおそるおそる歩き、そこから落ちたらゲームオーバー、と教えるよりは。
「行かない」ではなく「行けない」ことにされてしまった人たち
通ってはいたものの学校にはついぞハマらなかった、というような人を除いて、学校教育を受けた人たちは基本的に、つねに先を見るようになる。
視線の向けるべき場所は、今ではなく先なんだと教わる。
今やることは、今のためじゃなく、明日の、来月の、来年の、卒業後の、将来の、老後のため。
それにハマる人はもちろんそれでいい。
困るのは、どうにも性に合わず、しょうがなしにやり過ごせる程度でもなく、学校に “ 行かない ” のではなく、“ 行けない ” ことにされてしまった人たち。
親は親で、もちろん先を見るよう教わっていて、学校に行けなくなった子どもは、まるで路頭に迷っているかのように見える。
行くべき場所が見えない、出口もない、八方塞がりの、そういう状態。
実際、そこには出口なんてない。
はじめから、どこもなんにも、塞がっちゃいない。
目的や目的地、目標をつくることに躍起になるくらいなら、その労力で、目的そのものについて考えてみる。
目的ってなんなのか、目的地がないと、毎日を過ごすには足りないのか?
よい目的と、そうでない目的がある?
生きることに目的が必要なのか?
今日に満足して眠る
わたしはどうにも目的というのを持つのが下手くそで、目的地なんてまったく見えないし、明日のために眠ることもできない。そういうのはなんか、向いてないらしい。
今日に満足して眠って、それで次の日があったらその日を楽しんで、それで日々はじゅうぶん成り立っていると思う。
「それじゃ生活が、お金が」なんてつまらないことを言うのは、とりあえずやめておいて。
働くことをよけいな荷物だと考えていたら全然おもしろくないし、歩けるものも歩けなくなってしまう。
塞がっちゃない、ということに気づくのがなにより先で、そうしたらあとは、どうにでもできていく。
誰かに正解を求めなくたって、それだけの力は、十分にある。わたしたちはそれほどばかじゃない。
生きるっていうのは生きているってことで、条件がつくようなものじゃない。
見通しなんてなくても、役にたつ知識や備えがなくても、今がどこへ行くのか知らなくても、全然、かまわない。