こんにちは、AI-am(アイアム)の よっぴー です。
『被抑圧者の教育学――50周年記念版』(パウロ・フレイレ著/三砂ちづる訳)を読みました。
『被抑圧者の教育学』は、1968年に発表されたブラジルの教育思想家、パウロ・フレイレ(1921-1997)の代表作。
世界中の多くの言語に翻訳されていて、日本では1979年に英語版からの翻訳(小沢有作さんの翻訳)が、2010年にはポルトガル語から翻訳された『被抑圧者の教育学―新訳』(三砂ちづるさんの翻訳)が刊行された。
で、版を重ねて読み継がれている『被抑圧者の教育学』が、昨年は50周年記念版として出版された。
新訳とくらべたとき、この50周年記念版には、ドナルド・マセドのまえがきや、アイラ・ショアのあとがき、同時代の学者さんたちへのインタビューが新しく付け加えられていて、なんとも贅沢な読みごたえでしたー。
もくじ
「不登校」が不安ではなくなった一冊
もう20年ちかく前になるけど、息子が学校に行かなくなった当初、
学校ってなんだろう? とか、
教育ってなんだろう? と考えるようになり、
毎日、図書館にこもって、教育の本を読みふけってたんですね。
『被抑圧者の教育学』はそのうちの一冊で、「不登校」が不安ではなくなった一冊でもありました。
当時読んだのは、小沢有作さんの翻訳のほうで、
学校の与える学力中心の教育が、非人間化の過程となり、抑圧の強化をもたらしたことを指摘したこの『被抑圧者の教育学』を夢中で読んだものでした。
のちに新訳が出て、そちらも読んで、里見実さんが書かれている『 パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む 』 も読んでしても、『被抑圧者の教育学』は読み進めるのが難しい本ではあるんだけれど、今回、50周年記念版が出てるのを知って、再度、ふむふむ唸りながら、読みましたー。
不朽の名著ですね、ほんと。すごい本だ。
目次
目次は、まえがきや序章のあと、
第1章 「被抑圧者の教育学」を書いた理由
- 抑圧する者とされる者との間の矛盾 ― それを乗り越えるということ
- 明らかな抑圧状況と抑圧者について
- 明らかな抑圧状況と被抑圧者について
- だれも他人を自由にしない、だれも一人では自由になれない ― 人間は交わりのうちにしか自由になれない、ということについて
第2章 抑圧のツールとしての “銀行型” 教育
- 問題解決型の概念と自由と解放のための教育
- 「銀行型教育」の概念、そして教える者と教えられる者との矛盾について
- ほか
第3章 対話性について―自由の実践としての教育の本質
- 対話的教育と対話
- プログラムの内容の探求から始まる対話について
- ほか
第4章 反‐対話の理論
- 反‐対話的な行動の理論とその特徴について
- 対話的行動の理論とその特徴 ― 協働、団結、文化的文脈の組織化
- ほか
からなり、あとがきやインタビュー等がつづきます。
自由への恐怖
抑圧する者とされる者との間の矛盾の冒頭、抑圧者の暴力は、抑圧者自身をも非人間化していく。からはじまる一章では、
本当の寛容と、偽りの寛容のことが語られ、偽りの寛容を装う抑圧者の態度には愛の不在が隠れていること、また、「自由への恐怖」について詳しく書かれています。
はじめて読んだときにおもったんです。
➖ 抑圧する者と、抑圧され(てい)る者。。。
あんな親にはなりたくないなんておもっていたのに、そんなあんな親になっているのとおなじだなあって。
不登校をゆるせないのもそう。学校の先生にきちんと言えないのもそう。
何が怖いのか。なぜ、自由への恐怖が生まれるのか。➖
パウロ・フレイレは「被抑圧者は自由を怖れる」とし、被抑圧者が人間となるための重要なことを、本書で徹底的に究明していきます。
また、フレイレは、従来の教育を「銀行型教育」と呼ぶんですね。そういった教育ではなく、今、必要なのは、問題解決型教育であると明言しています(1968年に!)。
※ とっても長くなりそうなので、何回かにわけてUPしていきます。
今日の本
被抑圧者の教育学――50周年記念版/パウロ・フレイレ(著) 三砂ちづる(翻訳)
解放の教育学はこの本から始まった ―― 不朽の名著いま、再び!
1979 年の刊行以来、増刷を重ねてきた教育関係者の必携書! !
初版発行から50年を経た今、大幅増補を加え50周年記念版として刊行。
教育の視点から「抑圧の文化」に対峙する視点を提示する。
世界中で読み継がれている教育思想と実践の書であり、常に新しい読者を獲得してきた信頼の一冊。
初版刊行50周年を記念し、チョムスキーなど世界の碩学がオマージュを寄せた決定版!!
[amazonjs asin=”4750515450″ locale=”JP” title=”被抑圧者の教育学――50周年記念版”]