こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
辞書で「自己肯定」と「自己肯定感」を調べると、次のように載っていました。
自己肯定
自らの存在意義や価値などに関する積極的な評価、自己評価することなどを指す表現。
出典:実用日本語表現辞典
自己肯定感
自分のあり方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する語。 自己否定の感情と対をなす感情とされる。
出典:実用日本語表現辞典
なんだかわかるようで、わかんない(笑)。
まあ早い話が、「自己肯定」というのは、“自分は大切な存在だ”、“自分は価値ある人間だ” 、ってことですよね。
「自己肯定感」は、そうおもえるかどうかの 感情 。
うぬぼれに過ぎない 優越「感」や、劣等「感」といっしょで、この感情ってやつは曲者です。
もくじ
自己肯定感が低いのはなぜか?
“自分は大切な存在だ”、“自分は価値ある人間だ” と、強く思えれば自己肯定感は高く、あんまりそう思えないときは自己肯定感が低い(下がる)ってこと?
どう思っても(感じても)、価値ある人間であることに変わりはなく、存在の大切さは、いつどんなときだっておなじ なのに。
それなのに、なぜ、「自己肯定感が高い」だったり、「自己肯定感が低い」だったりするのか。
その原因はなにか。
自己肯定感を高めるにはどうしたらいいか?
「自己肯定感が低いんです」
「こどもの自己肯定感を高めるにはどうしたらいいでしょうか?」といったご質問をよくいただきます。
「いまがんばらないとあなたが将来困るのよ」、そう言われ続けてがんばってきたこどもの肯定感を上げるために、親は相談をする。
学校を行きしぶるようになって休みがちな我が子に、なにをどう言えばいいかわからなくって、相談をする。
このとき、仮にわたしたちが、
「そんなのだいじょうぶですよ。まりんさんなんて勉強もいっさいしていなかったし、小学校も中学校も高校も行っていないけど、ちゃ〜んとおとなになりましたよ」。
「学校に行かなくても別にかまわないのですが、友だちがいなくて……」「そんなのだいじょうぶですよ。まりんさんもいなかったですよ」。
「うちの子、外に出たがらず運動不足が心配で……」「そんなの心配いらないですよ。まりんさんなんていまだ運動していないけど健康体ですよ」。
などと答えたら、安心するのだとおもう。
けど、その安心は、安心「感」にすぎないじゃないですか。
これが肯定感の「感」です。
「感」は、効き目が数時間から数日、数ヶ月、あるいは特定の場所でしか持続しません。
自己肯定
自己肯定は、感じて、考えて、判断して、行動にうつしたときの(感じてから行動するまでの間が1秒のときもあれば、1時間、1日、1年、、もある)、
からだの内からわきあがってくる何か(はつらつさだったり、達成したよろこびだったり、静けさだったり、哀しみだったり…)が、
“自分と逢う” というか、“自分をかんじる” というか、そんな感覚に触れさせます。
その感覚が積み重なっていくと、いつだって自分のなかには自分( ← ややこしいので、この自分は、以下「自分さん」と呼ぶ)がいることを知り、自分さんを味わうことができる。
自分さんと自分が遊離せず、自然と、自己を肯定しているひとになります。
自己肯定が崩れていく過程
はじめ、自分と自分さんは遊離していなかったけれど、生まれて1年ぐらい経つころから(人によってはもっと前から)、なにかをやろうとしても「あぶないよ」とか「ダメよ」と否定されはじめることで、わたしたちは「自己肯定」を崩されていきます。
ときには、なんでも勝手に(親の価値観や好み、都合で)選ばれて。
ときには、人格まで否定されながら。
感じて、考えて、判断して、行動にうつした言動は、しょっちゅう怒られるんですよね(否定される、または干渉される)。
そうなると、ハートがキャッチした「やりたい!」が、「でも、怒られるよなあ。やめておこう…」となっていきます。
そうやって、だんだんと自分と自分さんが遊離していきます。
自己肯定「感」の誕生
自分から遊離していく自分さん。この自分さんに一日でも早く気づけて 自身の尊厳を守ったひと や、
思春期ごろになって、怒られないように、いわゆる「いい子」になる(外部から自分を守る)のではなくて、いわゆる反抗期に、反抗することによって自分から遊離していく自分さんを繋ぎとめ、守ったひとは(かつ、親のほうが これまでの自分を省みた親をもつひと は)、
一度は親に「自己肯定」を崩されても、ふたたび自己を肯定できる のでは、とおもいます。
(おとなになってからも、もちろん取り戻すことができます。なんたって、それがおとなの特権でもあるんだから!)
けれどそうじゃない場合に、(たとえば正解や安心を)外側に求める場合に、自己肯定「感」になる のではと考えます。
自己肯定「感」は他者評価
このとき、自分と自分さんはすっかり離れちゃっているので、感じて、考えて、判断して、行動にうつしたときに出逢うのは、他人の目です(他者からの評価)。
というよりむしろ、怒られないかな、なにか言われないかな、嫌われないかな、間違わないかな、、と他者からの評価がこわくなり、自分さんの言う通りに 感じて、考えて、判断して、行動にうつす なんてことが、なかなかできなくなっています。
自己肯定「感」がもろく、上下するのは、求めた正解や安心が、外側、つまり、誰かのものだからです。
自己肯定「感」が低いと、たとえば目の前にあらわれた問題(不安)を、手のひらに乗せて、いく日も、いく日も、じわ〜と眺めていたり、おふとんの中にいれてあげたり、そんなことはできないじゃないですか。
本来なら、自分さんにひきこもって味わえるときなのに、
そんなことは耐えきれなくて、自己肯定「感」の高いひとのもとへ走って行って、正解を求めちゃうんですよね。
自己肯定「感」の高いひとはやさしいから、自分が欲する言葉をかけてくれるし、褒めてくれます。
そうして、そこで安心してしまう。
日本の子ども・若者の自己肯定感
日本の若者の「自分自身に満足している」「自分には長所がある」といった自己肯定感は、諸外国の若者と比べて低いことが報告されています。
下の図表は、内閣府が平成30年度(2018年)に実施した、日本を含め7カ国の13〜29歳の若者を対象とした意識調査の結果です。
「そう思う」または「どちらかといえばそう思う」と回答した者の割合が、諸外国の若者と比べて圧倒的に低くなっていることに加え、
「自分自身に満足している」「自分には長所がある」のどちらも、平成25年度の調査時から、ますますもって低下していることがわかります。
また、文部科学省における学年別の自己肯定感を調査した結果 が、下の図表です。
「高い」「やや高い」の割合が、小学校では 4、5、6年生いずれも5割を超えているのに対して、中学校2年生で極端に低下し、年齢が上がるにつれ、自己肯定感が低くなっているのがわかります。
※ 次回、ここ詳しく書きます。➡︎ 書いた:) ↓↓↓
哀切を軸にした「私」と再会しよう
起きる時間や食べるもの、着るもの、おもちゃ、遊び、遊ぶ場所、読む本、テレビ番組、時間の使いかた(一日の過ごしかた)、etc…。
他者(であるこども)の、ひとりの人間(であるこども)のアレコレを、どうして親が決めるのだろう?
とんでもなく貴重な動画を載せた 前回の記事 で、デモクラティックスクール(サドベリースクール)のスタッフが話す本質もここです。
余談だけど、
よっぴーまりん親子による共著『不登校になって伸びた7つの能力』で、まりんさんが書いた7つの能力、「学力」「行動力」「自己管理力」「コミュニケーション力」「集中力」「自己肯定力」「考える力」。
このうち「自己肯定力」については第7章で書いているのだけど、その章には、“自己肯定力” はもとより、“自己肯定” や “自己肯定感” といった言葉がいちども出てこないの。
書いた本人は気づいていなくて、わたしのほうが先に気づいて、「おもしろい〜」ってふたりで大笑いした。
感じて、考えて、判断して、行動にうつしたときに出逢う「私」は、ほんとうに、ほんとうに、大事。
こどもの肯定力を高めたいのなら(高めたいわけじゃなくても)、まずは、親が「私」を取り戻そう。再会しよう。
人間の生は哀切を軸に成り立っているとおもうから、痛みを肯定するところからなんですよね。
肯定しやすいも否定しがちなところも、ジャッジしないでぜーんぶ含めて、今の自分を受け入れてあげよう。
どうやったらいいのか、受け入れ方は、こちらの記事で書いています。↓↓↓