KGBジェノサイド博物館【バルト三国リトアニア・ヴィリニュス】

am3こんにちは。

AI-am(アイアム)
吉田 晃子です。

 

旧ソ連の秘密警察KGBが総本部として使っていた建物(現、リトアニアKGB博物館)の画像と、KGB博物館に行ってかんじた、尊厳と自由の大切さについて書いています。

KGB博物館

KGBとは1954年からソ連崩壊(1991年)まで存在した旧ソ連の秘密警察(秘密謀報機関 NKVD、後にKGB)のことをいいます。

リトアニアの首都ヴィリニュスにあるKGB博物館は、KGBが実際に1940年から1991年の50年間、総本部として使っていた建物で、博物館自体がもと収容所でした。

 

多くのパルティザン、政治犯、聖職者、知識人から普通の人まで…、旧ソ連領となる前からKGBに監視されていたリトアニアの人々は、KGB本部(現、KGB博物館)に連れて来られ、拷問を受けたり、シベリアに送られたりしていました。

(リトアニアを占領後すぐに、同じくバルト三国のラトヴィアとエストニアも占領され、シベリア奥地への大量流刑も開始された)

 

そのときの拷問や虐殺、銃殺が行われた部屋や道具などが保存されていて、一般公開されています。

[Website]
http://genocid.lt/muziejus

 

拷問、虐殺が行われたまま残っている地下室

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各部屋ごとに、英語とリトアニア語で、パネルや説明文が記されています。
(わたしは英語もリトアニア語もわからないので読めませんが^^;)

 

 

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KGB博物館の表には「虐殺犠牲者の博物館」と書かれたプレートが掲げられています。

1階入り口でチケットを購入して道順通りに階下に降りて行くと地下室への扉があります。

 

 

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地下室への扉、その扉を開けた瞬間…

そこに漂う温度や臭い(におい)、空気の不気味さに足がすくみました。

冷たく(訪ねたのが冬だったのでことさらに寒かったのだとおもいます)、かび臭く、薄暗い長い廊下の左右に部屋が並びます。

新しく連れられた政治犯の写真撮影室、看守の詰め所、椅子・机が床に固定された訊問室、収容室などです。

 

それらの部屋が並ぶ前、入ったところすぐに、なんとか立っていられる? ぐらいのスペースしかない拘禁室、立ち牢があります。

まず入ってきた政治犯は、ここでトイレに行くことも許されず、何日間かを過ごす。(略)

つまり、数日間、ここで過ごす。

足を折って過ごすこともできない狭さなので、疲れて足を折ると、そこが圧迫されて鬱血し、足の血の巡りが悪くなる。長くなれば、足を切断することになるかもしれない。

政治犯は、自分の汚物の臭いが充満した部屋で、座ることも許されず、人間性を否定されて抵抗する意思をそがれるのだという。

http://hhj.blog.so-net.ne.jp/2015-09-01より引用

 

 

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拷問室の扉。
苦痛の叫びが外に漏れないように、吸音材や防音材として分厚いクッションが貼られています。

 

 

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天井、壁全面に張り巡らしたクッションには、血のにじんだ痕が残っています。

奥に見える黒いものは、骨が折れるほど強く体を締め付けるための囚人服。と、「地球の歩き方」に書かれてあります。

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この拷問室は、水責めにする拷問室です。

部屋の中央に直径30センチ程の丸い台があり、政治犯は裸にされて、そこに立たされ、それ以外の周りは冷たい水で満たす。

凍るような冬場、ずっとその上に立っていなくてはならない。眠れば冷水に落ちるので、眠ることはできない…。

 

 

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たぶんこのタイプの部屋は収容室なんじゃないかな。

いったいここに何人の人が入れられたのだろう…。

 

 

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トイレは1日1回、1度に皆で使わなければならなかったと、これまた「地球の歩き方」に書かれていました。

しかも使用時間は5分だけ。

和式風便器が3つ。仕切りはありません。

 

 

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シャワーは月に1度だけだったそうです。

 

 

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各部屋を過ぎた先、地下2階に、この画像の部屋があります。

画像の奥が、銃殺が行われた暗殺室です。無数の銃痕と、こびりついて取れないのでしょう、血痕が一面びっしりでした。

暗殺の状況を知ることができるビデオが流されているのですが、数秒しか居ることができません。映像がきついとかなんとか言う以前に、臭いがムリなのです。ここまで通ってきた臭いとは比ではなかったです。

遺体は見せしめにと広場などにも放置されたそうです。

床がガラス張りの展示になっている画像の部屋は、眼鏡や靴、歯や人骨などが保存されています。

 

 

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見ての通り、毒ガスマスク。

1階、2階は、ほかにもたくさんのあらゆる物や手紙、写真パネルなどが展示されています。

盗聴機室など当時のままの部屋も見れます。

 

 

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KGB博物館、虐殺犠牲者の博物館の前にある犠牲者を追悼したモニュメント(左に見える建物が博物館)。

 

通りに面した場所に石をたくさん積み上げた慰霊碑があり、そこでしばらく立っていたのですが、女性がひとり、お花を飾っていました。わたしに気づくと「ラシアン、パンパンッ!」と言って右手で自分の頭を撃つ仕草をしました。緊張しました。女性が話しはじめます。

通訳さんによると、或る日突然、KGBが来て家族全員シベリア送りにされたそうです。お父さんがリトアニア軍将校だったことと、お母さんが知識人として有名な人だったことから12歳のお姉さん、9歳のお兄さん、そして2歳だった彼女もシベリアに。苛酷な労働と激烈な環境の下、両親が亡くなり、姉、兄も若くして亡くなり、末娘の彼女だけが生き延びて苦難の連続の人生だと言います。

リトアニア各地から届けられた石を積み上げたこの慰霊碑に、毎月お参りし、お花を供えて「ここで、亡くなった家族と話をしてるの」と優しい顔で言った時、聞いていたわたしの胸は張り裂けそうでした。

出典:マガジン9:http://www.magazine9.jp/

上記は、マガジン9/ 木内みどりさんのコラム「人間の鎖」 より引用させてもらったものです。このあと3・11のこと、政治や社会参加について、感じていること、気になっていることを 「本音」で綴られています。

 

国立ユダヤ博物館と杉原千畝

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近年の歴史を辿りたく、KGB博物館を訪ねる前に、国立ユダヤ博物館にも行きました。

リトアニアは1940年6月ソ連の侵攻により独立を失います。その後、第二次世界大戦中はナチスドイツに占領され、1944年に再びソ連支配下におかれ、文化も母国語も奪われます。

ナチスドイツに支配占領された4年間、ユダヤ人の大量殺戮が行われ、20万人もの命がナチスドイツによって奪われました。

その一つひとつが詳細に調査され、7万人近いユダヤ人の写真と資料が国立ユダヤ博物館に展示されています。

[Website]http://www.jmuseum.lt/index.aspx

 

第2次世界大戦中にナチスに迫害されたユダヤ人にビザを発給し、命を救った駐リトアニア領事代理の杉原千畝さんの名も刻まれています。

[Website]http://www.sugiharahouse.com/jp

 

粛清の恐怖

KGB博物館はこわかったです。

でもそれは画像にあげた部屋や暗さ、血痕がこわかったのではなく…。

歴史上最大の殺戮者といわれるヨシフ・スターリンの狂気、でもなく…。

そうではなく…。

自分と同じ人間が実際に行ったという事実。

人間は人を愛しながら、人を殺せる生物だという事実。

平和を望んで戦争できる生物だという事実。

 

人を人ともおもわず、人間の尊厳を侮辱し、下等な存在と考える。

この思い込みのパワーこそが、虐殺の原動力の一部となるのでしょう。

支配欲を断ち切れない人間は、いかに残酷になれるかを知ったことがこわかったです。

戦争のおそろしさではなく、戦時下の人間がいかに残酷になれるかを知ったことがこわかったです。

スターリンは死んでこの世にもういませんが、子どもを下等な存在と思い込んでいるおとなは、21世紀になった今もごまんといます。

わたしたち おとなは、残酷なことを平然とやってしまいます。

 

自由の大切さ

ソ連支配下の中でいかにリトアニア人が犠牲になったか。写真や風刺画には、解説が読めなくても伝える力があります。

エストニアから、ラトビア、リトアニアの国民が手をつないで、独立を訴えた「人間の鎖」の写真は心を強く打ちました。

 

遠い遠い昔のことじゃない。

最後のロシア軍がエストニアから撤退したのは1994年です。

日本では「僕は死にません。あなたが好きだから」が流行語大賞となったドラマ、『101回目のプロポーズ』が放送されていたころです。KGBは、絶対的恐怖を持って市民を支配していました。

 

建物の外周、外壁には、KGBの地下室で殺された人々の名前が刻まれています(トップの画像)。

名前とともに生没年も刻まれています。1927-1946、1925-1946…。

100回フラれることは自由の証なんですね。その永眠、あまりに若い。

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