AI-amの吉田 晃子です。
子どもとの暮らしで、やさしさとはなんですか? 教えなければならないのはなんですか? 教えちゃいけないものはなんですか?
やさしいのはだれですか?

行列のできる月末の銀行で、ATMを並んで待っていたときのことです。
わたしの前に、お母さんと並んでいた3歳ぐらい? の男の子が、何気にふっと振り向きました。とっさにわたしは、「ああ、来るな〜」と心の内で構えます。予感はあたりました。
男の子は「えっ?」って感じで、再度振り返ってわたしをみて、大慌てでこう言いました。
「おばちゃん、鼻から血がでてるぅ!!」
男の子の発言に、その子のお母さんも振り返り、わたしを見ます。そしてお母さんは、男の子にこう言います。
「こらっ!! そんなこと言うたらあかんの!!」
それから、すかさずわたしに、「すみません……」と。
わたしは、 口唇口蓋裂 という疾患をもって生まれてきていて、鼻の下から くちびるの間を縦に、縫った痕があります。わたしの場合、縫った痕は皮膚の色をせず、ミミズのように赤いんですね。なので、ちょくちょくこのような「鼻血でてるぅ!!」とか、「それ、どうしたん?」と言われる場面はあります。声には出さない2度見、3度見なら、しょっちゅうです。
やさしさとはなんですか?

そのたび わたしはおもうのです。
これは障害を容認している人限定かもしれませんが、ただただ好奇心から発した「どうしたん?」や、良心で言った「鼻血でてる」の言葉には傷つきません。そこに愛があるかどうかは一瞬でわかります。「知りたい」という純真さは伝わります。
悲しくなるのは、その横に居る人の、「こらっ!! そんなこと言うたらあかんの!!」の常識なんです。「そんなこと言うものじゃないですよ」と、上品に、穏やかに、優しく言うのも一緒ですよw。
そう言ってしまう その常識は認識しています。だから、その人にはなにも言いません。つうか、なにも言えません。遠慮とか、いざこざになるからではなく、それがその人だからです。そして悲しくなるのもまた、わたしがわたしだからです。そのうえでの話です。
子どもの学びを奪わないでほしいのです。奪っていることに気づいてほしいんです。
子育てとはなにか、教育とはなにか?

見る、聞く、触れる、嗅ぐ、味わうといった五感で感じた興味、自分の身体をとおして感じた関心事を、子どもたちと共に感じ、考え、学ぶことが大切なんだとおもっています。その学びの芽をつめば、花は咲きません。
芽をつむということは、つまりは社会が持つ(社会に持たされている)価値観に乗っ取られてしまうということです。障害のある人たちを、自分自身とは「別の世界の人」と捉え、「かわいそうな人たち」にしてしまいます。己の不自由さに気づかずに、子どもの自由をも奪い、選別を教え、「普通」という枠組を設けてしまいます。
命の大切さや、「みんなちがってみんないい」の尊さなどというものは、暮らしのなかで育むものです。学校で教わるものではありません。命の大切さや、尊さは、実感「させる」ものではないのだから。
人の生き方を自分自身の問題として捉えることなくして子どもを教育することは難しいです。おとなは、子どもにとっての重要な環境であるということを自覚しなければならないのではないでしょうか。
おじいちゃんといっしょ

わたしは、男の子に言いました。
「鼻血が出てるとおもったんだね。教えてくれてありがとう。これはね、こーこーしかしかで縫った痕なの」
すると、自分のことをカイトと名乗るその男の子は、こう言います。
「カイトのおじいちゃんもなぁ、お腹に縫ったんあるで。いっしょやなあ」
「えーそうなの。いっしょやな」
「うん。おじいちゃんはな……」
ATMの順番がくるまで、カイトくんとのおしゃべりはつづきました。