「どこで学ぶかではなく、なにを学ぶか」にひそむ3つのキケンを知っておこう

amam
こんにちは、

AI-am(アイアム)のよっぴーまりんです。

 

社会における「不登校」のありかたは、少しずつ変わってきました。

そのなかでよく見かけるようになった「学校に行く、行かないとかじゃない。どこで学ぶかではなく、なにを学んでいるか!」という言葉。

大切なことだからこそ、ここにひそむキケンな「学び信仰」を知って、より身軽で謙虚な親になろう!

 

変容する「不登校」のありかたへの注意

社会における「不登校」のありかたは、少しずつ変わっています。小さなところから、確実に!

そのなかで、「学校に行く、行かないとかじゃない。なにを学んでいるか!」といった言葉をよく見かけるようになりました。

 

どこで学ぶかではなく、なにを学んでいるか。この視点が大切なのは本当です。そして、だからこそわたしたちが気を引き締めて、注意しなければいけないことがあるなと感じています。

それは、「“学び信仰”になってはいけない」ということ。

 

「学校に行っていなくても、勉強していなくても、こどもは◯◯を学んでいる」

「どこで学ぶかより、何を学ぶか」。これは、わたしたちの本の帯にも書かれている言葉です。笑

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わたしたちはすぐに自分の都合ばかり可愛がってしまうものだから、こどもをはじめ、自分よりも弱者(とされる相手)に及ぼす影響とその権力には、慎重になりすぎるくらいでちょうどいい。

 

さまざまな記事やお話、わたしたちがいただくメッセージ、かけてもらう言葉、公の学校には行っていないこどもさんがいる親さんのSNSへの投稿……。

そこに頻出するのは、

「学校に行っていなくても、勉強をしていなくても、こどもは(こんなことを)学んでいる」
「今日こどもが◯◯をして、△△を学んでいた」

といった内容です。

 

ここに1つめのキケンなポイント。「こどもがなにを学んだか」なんてことが、どうして親にわかるんでしょう?

 

本人にさえわからない「学び」

学校の教科学習では、なにを習うか、なにを習ったかが、はっきりと把握できるようになっています。

明確な目標があり、覚えたことと覚えていないこと、できることとできないこと、教科学習はたったの二択と明快なものです。

 

けれど、数値でこどもの状態を測ったり、評価する学校、またそのシステム自体から離れ、教科勉強もしなくなれば? いわゆる「毎日好きなことを好きにやって遊んでいる」こどもを測ることは困難ですよね。

それは本人にだって同じことです。自分がどんな学びの過程にいるか、今日はどんな成果を上げたかなんて、わかるはずがないし、そもそも気にしていません

確実にわかるのは、楽しいとか、退屈とか。むずかしい、かんたん、おもしろい、そんなことですよね。

 

「なにを学んだか」なんてことは、本人にもわからない。月日が流れて、いつか振り返ったときに、「あー、あんなことを学んでいたのかもしれないな」と思えるくらいのものです。

そこに親が踏み入って、「こどもは学校には行っていないけれども今日は◯◯をして、そのなかで△△を学んでいた」と、こどもの生きた動きを測り、額縁に入れてしまえば、それは親の安心材料になってしまいます

 

ぼく/わたしは、なにかを学んでいなければいけないの?

ここに2つめのキケンがあります。

「なにかを学んでいなければならない」という観念が、わたしたちにはすっかり根づいてしまっています。だって、そうやってここまで生きてきたんですもんね。

 

でももし、自分がこどもの立場で、(どこかのスクールなどに通っていてもいなくても)不登校をしていて、勉強や代わりとしてのなにかを強いられることもなく、自分の好きに過ごしていい、そんな環境だったら。そのとき、親が嬉々としてそんな話や投稿をしているのを見たら?

そうしたら、

「ぼく/わたしは、なにかを学んでいなければいけないのか?」
「なにかを学んでいないぼく/わたしはいけないのか?」
「学校に行かなくても勉強をしなくても、結局は生産性のある、形のあるなにかを成し遂げていなければいけないのか?」

と思ってしまう。

なにかに秀でていれば学校に行かなくてもいいけど……、といった考えとも近いですよね。

 

こどもがなにを学んでいても、いなくても、親にわかる確実なことは、「今日は楽しそうだったな」とか、「いきいきと活発だったな」「なんだかしんみりしていたな」くらいのことです。

こどもが落ちこんで泣いている姿よりも、楽しそうにしているこどもを見られたら、もちろんうれしい。そんな日が続けば続くほど、うれしいです。

 

それならなおさら、抽象的で流動的な一日のなかからこどもがなにを学んだかなんて、関係のないことじゃないですか。

少なくとも、他人である親が勝手に切り取れるもの、切り取っていいものではありません。

 

この子がこの子として生きてほしいと願うなら

こどもがこんなことを学んだ! 学んでいる! と確認したい気持ち。これが3つめのキケンなポイントです。

こうした確認は、親自身のまだまだしつこい不安や承認欲求からきていることが、実は多いもの(学校信仰はホントに根深いのだ!)

待っていることに苦悩するのは、「それ」を待っているから。まだ見ぬ「それ」を埋めるために、親は「こどもは今日〇〇を学んだ」という目で見てしまいます。

 

自ら誰かに伝える、伝えたい気持ちは、どこからきているのか? ということについて、わたしたちは自覚的になっていたい。

それは、こどもがその人として生きていくために、です。

 

親の顔色をうかがったり、親の反応に正解を見つけたりしなくてすむように。

ほんとうにそれがしたいのか、親が喜ぶからそれをするのか、自分でもわからなくなってしまう、そんな思いをせずにすむように。

親を喜ばせてはいけない、なんて話ではもちろんないですよ。「自分」を土台に育っていくものが愛情であって、「親」は土台になってはいけないんです。

 

この子がこの子として生きていてほしい。

そんな願いを持っている親がすることは、「自分はなにを選んでもいい、なにをしてもいい、自分はすべて自分のものなんだ」という絶対的な信頼を、こども自身のものにすることです。

せっかく学校に行っていないなら、なおさら!

 

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