こんにちは、AI-am(アイアム)の星山まりんです。
学校に行かなくても「好きなことがあればいい」とか、「やりたいことがあればいい」と言う。それがあれば学校には通わなくてもいいよね、とか。よく言う。
これを言うのは子ども本人ではなくて、いつも大人。
好きなことがなければ、やりたいことがなければ、学校に行かないことはダメなんだろうか。
「好きなこと」があるひと、ないひと
好きなこと、というとざっくりしているけれど、「しなければいけないこと」や「したほうがいいこと」をしなくてもよいときに(むしろ、そういうことはしてはいけない、という場合に)すること、くらいでもいいと思う。
そういうものが、すぐに浮かぶひともいるだろうし、ちっとも浮かばないひともいる。
程度にも差があって、まる一日でも夢中になれるひとと、そうでもないひとがいる。
「好きなこと/やりたいこと」と「学校に行く・行かない」の関係
「なにかに一日じゅう夢中になれるなら、学校へ行かなくてもいい」。
「夢中になるものがなくてダラダラしている(ように見える)から、学校に行かないといけない」。
学校がいやだ、と言っているひとに対して、ほかの誰かが行く・行かないを決めるのもおかしな話だけれども、それが学校外での過ごしかたを考慮して決められるというのも、だいぶ変だ。
好きなことがあるかどうか/やりたいことがあるかどうかと、学校へ行くか行かないかは、関係なくない? と、思う(学校に行きたくないわけではないけど学校に行くヒマもないくらい夢中なことがある、というのでなければ)。
子どもが、自分の心地よいものを選ぶときに、親を安心させる必要なんてない。
家族だから、好きだから、不安よりはもちろん安心を抱いてほしいけれども、少なくとも、相手から強要されるものではない。
「ない」ことや「空白」に対する恐怖
好きなことがあるのは、すごくいいことだ。なにせたのしいし、しあわせになる瞬間が多いし、しんどいこととか含めて、おもしろい、うん、たのしい。
でも、「学校に行かなくても好きなことがあればいい」という言葉が行きすぎたときに、その裏に「好きなことがなければいけない」というとらわれが透けて見える。
それがない子どもに向かって求めるのは、「学校に行かないかわりに勉強を」と言うよりも、ある意味ひどい。
ないものを、とやかく言ったところでなんにも生まれない。あるときは、なにを言っても言わなくても、ある。ないもんは、ない。
「ない」ことや「空白」に対する恐怖みたいなものを、一度よく見てみればいいのだと思う。それ自体は、悪でも不安要素でもないことに気づいてみる。
ただないだけ、というか、「ない」が「ある」だけ。