こんにちは、
AI-am(アイアム)の
よっぴー です。
以下、facebookのつぶやきより
初めて投稿した詩が、800篇を超えるなかから、新人作品に入選した3月。
あれ以降も毎月『 現代詩手帖 』に詩をおくってはるんだけど、
なんとも4月・5月も連続で佳作に選ばれつづけているまりんさん。
[aside]
『現代詩手帖』は、思潮社が発行する現代詩の月刊誌で、「詩といえば『現代詩手帖』」みたいな雑誌です。
で、直木賞や芥川賞と同じで、詩における文学賞として、「新人作品」に入選した作品のなかから、最も優秀な作品に、その年の「現代詩の新人賞」が贈られるんだって。
[/aside]
すごいなあ、っておもってた。
毎日々「詩」とは程遠い言葉と向き合う(左脳/目の前に見えている世界)仕事をしているなかで、一瞬、右脳にきりかえ、別のありようを思い描くことを可能にすることが。
でも、「ああ、そうか、そういうことなのか」とおもうことが、 現代詩手帖 4月号 のなかに書かれてあった。
4月号で、「詩とは何か」に対し、川口晴美さんがこう書かれていた。一部引用↓↓↓
詩にはルールや枠が一切無く、
(略)
何を書かなくてはならない、書いてはいけない、というようなきまりがなく、この言葉は使ってはいけない、こういう表現をすべき、という基準もなく、かたち(形式)も長さも、基本的には書く人が自分で決めます。
この自由さは、現実社会であれやこれやに縛られて生活している私達にとって、パラダイスのようであるのと同時に、過酷です。
こういう読み方でいいのだろうかと不安になったり、一般的に評価の高い詩がぴんとこない自分はダメなんじゃないかと思ったり、こんなふうに書くと怒られるんじゃないかと(いったい誰に怒られるのが怖いのか、よく考えてみた方がいいと思いますが)躊躇してしまったり……
公式基準がないからどっちに進めばいいか決められない。(略)
引用:『現代詩手帖』4月号
小中高と行かないことで、公の学校教育の影響を受けなかった彼女は、
また家庭においても「自分自身である」ことに、評価も指示もなく生きてきた。
いつだって自分のオールを自分の手で漕いできた。
人生とは自分を見つけることではなく、自分を創ることなんだね。
(写真は、須磨寺でギャラリー喫茶「あいうゑむ」を営まれている、だーーーい好きな福永祥子さん。
祥子さんは詩人で、現代詩手帖に選ばれることがいかにすごいことか、よーく知ってはるから、まりんさんの入選を、誰よりも誰よりもよろこんでくれたんだ)↓↓